伝記
ハリハラ1世は、南インドのヴィジャヤナガル王国を築いたサンガマ朝の初代の君主である。ハッカの名でも知られる。生年は分かっていない。サンガマという首長の長男で、父は自らヤーダヴァ族の出だと称したが、同時代の歴史家の記録からは、ワランガルのカーカティーヤ朝の王家と関わりがあった可能性が高いとされる。カンパ、ブッカ、マーラ、ムダの兄弟がいたとされ、若いころのことは、ほとんど分かっていない。弟のブッカとともに、デカンのカーカティーヤ朝か、南インドのホイサラ朝の家臣であったと伝えられ、カーカティーヤ朝の軍の指揮官であったとする説もある。
1323年、デリー・スルターン朝のトゥグルク朝の軍勢が両王朝を攻め、ハリハラとブッカは捕虜となってデリーへ連行された。二人はイスラーム教に改宗し、君主ムハンマド・ビン・トゥグルクに仕えたとされる。やがてカルナータカ地方のカンピリの統治者として南へ派遣され、各地の反乱やヒンドゥーの王たちの侵攻を抑えることを期待された。ところが1334年にタミル地方でマドゥライ・スルターン朝が独立すると、二人にも独立の野心が生まれていった。
1336年、ハリハラとブッカはトゥグルク朝に対して独立を宣し、ハリハラは王位を宣して首都ヴィジャヤナガルの建設に取り組んだ。王朝は二人の父の名にちなんでサンガマ朝と呼ばれた。二人はイスラーム教からヒンドゥー教へ改宗し、カーストに再加入することとしたが、これは独立よりも難しいことだったとされる。イスラームに改宗した者はカーストの外に置かれ、当時の法に従えば再加入はできなかったからである。ところがこの地方の宗教指導者ヴィディヤーラニヤは、二人の再加入を認めたばかりか、ハリハラはこの地方の神ヴィルーパークシャの代理であるとした。神が認めた者を問題にはできないとして、すべての禁忌が取り除かれた。ただし近年の歴史家には、デリーでの囚われの身や改宗はこの王国の独立と再改宗を語る創設の神話にすぎないとみる者もいる。これ以後、寺院に多額の寄付をすることが、ハリハラと後の王たちの習いとなった。王家の保護は主に古い寺院を飾ることや新しい寺院を建てることに向けられ、反ムスリムの立場には立たなかったという。統治では、ヴィディヤーラニヤの助言を受け、行政の単位を設けてバラモンの役人を優先して置いた。
1342年、ホイサラ朝の王バッラーラ3世がマドゥライ王国との戦いで命を落とした。戦死は1343年から1344年ともいわれる。ヴィジャヤナガルはその領土に攻め入り、1346年にホイサラ朝を滅ぼして版図を広げた。バッラーラ3世の甥のバッララッパ・ダンダナーヤカは、ハリハラの娘と結婚して同盟を結んだ。1347年にデカンにバフマニー朝が建てられると、北方の最大の敵となった。アーンドラ地方にはレッディ王国があり、タミル地方にはマドゥライ・スルターン朝があって、敵に囲まれた王国には更なる富の確保が必要だった。森が伐採されて開拓民が入植し、大規模な貯水池やダムが造られ、地租の制度と徴税の仕組みが活用された。増えた収入でトルコ人の傭兵を登用して騎兵軍が強化され、封臣からの招集軍には厳しい監査が行われた。バフマニー朝のアラーウッディーン・ハサン・バフマン・シャーの攻撃を受けて、領土の一部を譲らざるをえなかった。
ハリハラは1356年に亡くなったとされる。息子がいなかったため、弟のブッカがブッカ1世として跡を継いだ。ただし没年と死の事情は史料によって食い違い、1343年とする説や、1350年ごろとする説もある。サンガマ朝は1485年まで続いた。
同じ年に亡くなった人物
- Walter VI of Brienne (1356年)
- ルドルフ1世 (ザクセン選帝侯) (1356年没)
- タージュ・ウッディーン・ハサン・ブズルグ (1356年没)
- トクト (1356年没)
- リッポ・メンミ (1356年)
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