伝記
エティエンヌ・マルセルは、14世紀のフランス王国の市民指導者で、パリ商人頭、つまり実質的なパリ市長を務めた人物である。1315年ごろの生まれとされ、1302年から1310年のあいだともいわれる。百年戦争のさなかに一時的にパリを支配下に置き、後世には「中世のダントン」と呼ばれた。
衣類商の一族に生まれ、祖父の代には商いの範囲がヨーロッパ全体に及んでいた。父の死後の1333年から自身も一族の商売に携わった。1350年にはノートルダム大聖堂の参事会長となり、1354年にはパリ商人頭の地位に就いた。パリの上層の市民の出でありながら、人口の大半を占めた小さな職人や下級の官吏の権利を守る方向に歩みを向けた人物だとされる。
当時のフランスは百年戦争の渦中にあり、国王ジャン2世は対英戦費を集めるため、1355年に三部会を招集した。このときマルセルは国王と対立する立場をとり、税収を管理する委員会の設置を提案した。翌1356年の三部会では新しい課税が承認された。国王ジャン2世がポワティエの戦いで捕らえられると、1357年の三部会は国王の身代金を承認する場となり、マルセルは、租税の徴収、軍隊の召集、休戦の調印などに三部会の承認を必要とする国政改革を骨子とした「大勅令」の作成で中心的な役割を果たした。ところが、摂政の王太子シャルル(のちのシャルル5世)がこの大勅令を守ることを拒んだため、両者は対立した。マルセルは、王位を狙っていたナバラ王カルロス2世(エヴルー伯シャルル)が城から脱獄するとこれと手を結び、王太子を追い落とそうとした。
王太子シャルルがパリを離れると、マルセルはパリの防衛を固め、1358年にはジャックリーの乱の指導者ギヨーム・カルルと提携した。しかし6月にこの反乱が鎮圧されると、マルセルの人気と勢力は崩れ、フランドルや敵国イングランドの支援まで求めようとした。晩年には、当初の目的から外れ、自身の保身のためにフランス王位を望むカルロス2世の利益を支えたともいわれる。7月、カルロス2世を迎え入れる準備をしていたとき、守備隊長の1人に暗殺された。7月31日のことである。パリの市民が、市長が対立の末にこの町をイングランド人に明け渡すのではないかと恐れたためだったともされる。マルセルの一党は逮捕され、王太子シャルルがパリに迎え入れられた。
没後の1888年には、パリ市庁舎の南端の庭に騎馬像が建てられた。1908年に開業したパリのメトロ4号線の駅には、その名がつけられている。1981年にはパリの1区と2区の間の通りが、エティエンヌ・マルセル通りと名づけられた。アンドレ・ブルトンの詩「ひまわり」にも、その像が登場する。
同じ年に亡くなった人物
- 足利尊氏 (1358年没)
- アラー・ウッディーン・バフマン・シャー (1358年)
- アブー・イナーン・ファーリス (1358年没)
- ギョーム・カルル (1358年)
- イザベル・ブルース (1358年)
同じ地域に関係する人物
- ギュスターヴ・ル・ボン (1931年没)
- ルイーズ・エリザベート・ドルレアン (1742年没)
- ジャン=バティスト・ジュールダン (1833年没)
- アンリ・ミュルジェール (1861年没)
- クレティアン=ギヨーム・ド・ラモワニョン・ド・マルゼルブ (1794年没)