伝記
ベルディ・ベクは、ジョチ・ウルスの第12代ハンで、1357年から1359年まで在位した。ベルディベク・ハン、ビルディ・ベクとも表記される。父はジャニベク・ハンで、ベルディ・ベクの後には「大いなる混乱」と呼ばれる長い内戦の時代が来ることになる。
ジャニベクがチョバン朝の支配していたアーザルバーイジャーンを占領したのは1355年とも1357年ともされる。この遠征でベルディ・ベクは、タブリーズに副王として残された。ところが帰路のジャニベクが重病に罹り、父の命によるともベルディ・ベク自身の判断によるともいわれるが、側近のトゥグルク・ベクがこれを密かに彼に知らせた。ベルディ・ベクはわずか10人の供を連れて急ぎ本国へ戻った。ジャニベクの容体はいったん快方に向かい、息子が戻ったと知るとその意図を警戒した。母のトカイ・トゥグル・ハトゥンは、息子は脅威ではないとハンをなだめたが、疑いを恐れたトゥグルク・ベクがハンの殺害を仕組んだという。ジャニベクは1357年7月22日に死去した。ヴォルガ川の船上で亡くなったとも伝わる。当時の人々はベルディ・ベクの命令による殺害を疑ったが、遠征の後は父子の仲は良好に見えたともいわれる。後世のロシアの年代記は、ウルスのベクたちが絞め殺したと記す。ペルシア語の史料はベルディ・ベクかウルスのベクたちの仕業とするが、死についての直接の史料はない。
こうしてベルディ・ベクはハンとして宣言された。ロシアの諸公が祝いに訪れ、1357年11月には、府主教アレクセイらロシア正教の聖職者に、ジャニベクに奪われていた権利を回復する勅許状を出し、教会の家屋への課税を廃して教会裁判所の独立を戻した。このころ、トヴェリ公の甥のホルム公フセヴォロドが、叔父の地位を争おうとサライへ向かったが、ベルディ・ベクは「裁判なしに」彼を捕らえた。フセヴォロドはトヴェリに戻らされ、叔父ヴァシーリーが身代金を払って家臣団とともに取り戻したという。ベルディ・ベクはトゥグルク・ベクの助言に従って反対勢力になりそうな者を除こうとし、少なくとも12人の近親を処刑させた。その中には生後8か月の弟もおり、祖母タイドゥラ・ハトゥンが哀れみを乞うたにもかかわらず、ベルディ・ベクは自らその子を地面に投げつけて殺したとされる。こうした話から、16世紀半ばのウテミシュ・ハージーの『チンギズ・ナーマ』などでは、一族を根絶やしにしたキョテン・ハンという異名で呼ばれる。一方で、父の行政官たちは残して使い、役人を増やしてアミールを6人とした。
アーザルバーイジャーンは支配を保てず、チョバン朝の生き残りの手に戻り、周辺の諸勢力が奪い合う場となった。クリミアでヴェネツィア人との間に緊張が生じたため、1358年に新たな条約が結ばれ、ハンはヴェネツィア人にスダクでの交易を認め、商取引にかかる税を引き下げた。
1359年の8月か9月、事情ははっきりしないが、ベルディ・ベクはトゥグルク・ベクとともに殺され、クルパがハンとなった。一方で、病死したと記す史料もあり、最も同時代に近いヴェネツィアの公証人ベネデット・ビアンコは、ベルディ・ベクは万人の行く道をたどったと書き、クルパはその4日後にハンとなったという。後世の語りでは、多くの親族を除いたためにバトゥの系統が途絶えたとされる。以後の20年間に25人ものハンが即位する混乱が続いた。ベルディ・ベクの娘はおそらくトゥルン・ベク・ハヌムで、のちにママイ、次いでトクタミシュと結婚し、トクタミシュに1386年に処刑されたという。
同じ年に亡くなった人物
- Vitale da Bologna (1359年)
- イヴァン2世 (1359年没)
- レオノール・デ・カスティーリャ・イ・ポルトゥガル (1359年没)
- ベアトリクス・フォン・バイエルン (1359年没)
- エリク12世 (スウェーデン王) (1359年没)
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