伝記
ナウルーズは、1360年にジョチ・ウルスのハンの位にあった人物で、同じ年に世を去った。バトゥ家が断絶したあとのハンであり、先代のクルナと同じくジョチ・ウルス全体を統治する力を持たなかった。1360年の1月または2月に、先代ハンのクルナとその2人の息子を殺してハン位を継いだ。
ナウルーズの出自は不明である。自らジャニベクの息子と名のったとされ、多くの近代の著者もこれをそのまま繰り返してきたが、ティムール朝の史家ホーンデミールは、ジャニベクの息子を名のっていたにすぎないと述べている。同時代のヴェネツィアの公証人の文書は、ナウルーズが何の根拠もなくウズベクの息子を名のっていたと記す。信憑性の高いジョチ家の系図を記した『高貴系譜』などの書物には、ジャニベクの子孫にもほかの場所にもナウルーズは載っていない。ジャニベクの息子ベルディ・ベクは、生後8か月の弟を含む12人もの近親者を虐殺したといわれ、ナウルーズがジャニベクの別の息子だった可能性は低い。ジョチの息子タングトの子孫バザルチという人物が、史料のうえでナウルーズと同じような役割を担っており、2人はどちらも帝妃タイドゥラの配偶者で、ともにヒズルに排除されたことから、ナウルーズとバザルチは同一人物だとする説もある。ナウルーズにはティムールという息子がいた。
ナウルーズがハン位に就く直前の1359年11月に、モスクワのイヴァン2世が亡くなっていた。そのためナウルーズが即位すると、ウラジーミル大公位の継承を求めて、複数のロシア諸公がハンの宮廷を訪れた。イヴァン2世の息子で、のちにドンスコイの異名で知られるドミートリー・イヴァーノヴィチもその1人である。だがナウルーズは、ドミートリー・イヴァーノヴィチではなくスーズダリ公ドミートリー・コンスタンチノヴィッチに大公位の勅許状を与え、2つの公国の間に緊張をもたらした。勅許状はまずアンドレイ・コンスタンチノヴィッチに与えられ、彼が弟のドミートリーに譲ったともいわれる。ロシア語の年代記も、この措置を「父祖の土地の制度に沿っていない」と評している。
同じ1360年のうちに、6月ごろともいわれる時期に、ナウルーズは廃位された。ジョチの息子シバンの子孫ヒズルが、ナウルーズと息子のティムール、そして帝妃タイドゥラを処刑したとされる。ロシアの年代記はこれを、ヤイク川の向こうの帝王ヒズルとサライのベクたちの陰謀と伝える。ただしナウルーズの死を1361年とする記述もある。
ナウルーズの治世は、ジョチ・ウルスが20年のあいだに25人以上のハンを次々と迎えた「大紛乱」の初期にあたる。ハンの多くは同時に並び立ち、実権はほとんどなかった。ナウルーズの処刑後、ジョチ・ウルス右翼は内部で東西に分かれ、サライを中心とする東半は独自にハンを称するシバン家が、クリミア地方を中心とする西半は傀儡のハンを立てるママイの勢力が支配した。
同じ年に亡くなった人物
- ゲルハルト (ベルク伯) (1360年没)
- エーリヒ1世 (ザクセン=ラウエンブルク公) (1360年没)
- ヨアン・ククゼル (1360年)
- クルナ (ジョチ家) (1360年没)
- ニケフォロス・グレゴラス (1360年)
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