HISTORICAL PERSON · 1950年没

アーチボルド・ウェーヴェル (初代ウェーヴェル伯爵)

イギリスの陸軍元帥。第二次大戦で中東駐留軍司令官としてロンメル率いるドイツ軍と戦い、のちにインド総督を務めた。

生涯
1950年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ロンドン)
出生地
イギリス連邦(コルチェスター)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

アーチボルド・パーシヴァル・ウェーヴェルは、1883年5月5日に生まれたイギリスの軍人・政治家である。父は陸軍少将のアーチボルド・グラハム・ウェーヴェルで、その長男として育った。ウィンチェスター・カレッジに学び、校長は父に、軍人にならずとも他の道で身を立てるに足る才能があると助言したという。それでもサンドハースト王立陸軍士官学校を経て、1901年にブラックウォッチ連隊の少尉としてイギリス陸軍に入り、第二次ボーア戦争に従軍した。のちインドでバザール渓谷の作戦(1908年)にも加わり、1911年には参謀大学に入学して、以降は参謀将校の道を歩んだ。

同じ1911年にはロシア語を学ぶためロシア軍の観察将校として派遣され、演習を見て兵士の頑健さや規律に感心する一方、連隊の将校たちの教育不足が目についたと報告した。1913年にはロシアとポーランドの国境でスパイの疑いをかけられて拘束されたが、不利な書類を荷物から抜き取って事なきを得たとされる。第一次世界大戦に従軍して片目を失う負傷をし、戦間期にも要職を歴任した。1937年から翌年にかけては、パレスチナで起きたアラブ人の反乱の鎮圧作戦にも加わっている。

1939年7月に中東軍司令官となってカイロに駐留し、第二次世界大戦の開戦後は中東の広い地域の防衛を固めた。首相チャーチルがリビア侵攻を命じても準備不足を理由に拒み、守勢を保った。しかし1940年12月にコンパス作戦を発動すると、9万の兵力で25万のイタリア軍を破り、キレナイカ地方を占領した。ところがチャーチルが反対を押し切って北アフリカの兵力をギリシャへ送らせたため、1941年2月に着任したロンメル率いるドイツ軍の反撃の前に後退を余儀なくされた。同年6月に大規模反撃のバトルアクス作戦を始めたが、わずか3日で失敗に終わり、中東軍司令官を解任された。

その後はインド駐留軍司令官となり、1942年1月には米英蘭豪の連合軍司令部の司令官に任じられたが、同司令部は2月25日に解散した。この時期は日本軍が優勢を極めており、香港、マラヤ、シンガポール、ビルマの陥落を防げず、崩壊した英印軍の立て直しだけで精いっぱいだったとされる。1943年1月に陸軍元帥に昇進し、7月に子爵に叙され、10月にはリンリスゴー侯爵の後任としてインド総督に就いた。当時はベンガル飢饉で500万人が餓死していたとされ、食糧の配給制への移行と不当利得の取り締まりの強化を進めた。

インド独立がもはや抑え難いと認識していた総督は、戦後に労働党政権が誕生すると譲歩に動き、投獄されていた国民会議派の指導者を釈放し、1946年にはネルーを首相とする臨時政府の樹立を許可した。ただしネルーを教条的でバランスを欠く人物と見て、ガンジーのことは「あのじいさん」と呼んで侮っていたという。1947年2月に総督を退任し、統治の幕引きは後任のマウントバッテンに委ねられたが、権力移譲の土台はウェーヴェルが築いたといわれる。同年5月に伯爵に叙され、1950年5月24日に死去した。遺族はウェストミンスター寺院への埋葬を断り、母校ウィンチェスター・カレッジに葬った。寡黙な人柄で、英国の詩に通じ、詩集を一冊出版している。

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