HISTORICAL PERSON · 1950年没

グスタフ5世 (スウェーデン王)

ベルナドッテ王朝第5代のスウェーデン国王。1907年から1950年まで在位し、二度の世界大戦でスウェーデンの中立政策を維持した。

生涯
1950年没
死亡地
スウェーデン王国(ストックホルム県 / ドロットニングホルム宮殿)
出生地
スウェーデン王国(ドロットニングホルム宮殿)
出典
世界地図
スウェーデン王国(ストックホルム県)

伝記

グスタフ5世は、1858年6月16日にストックホルム県のドロットニングホルム宮殿で生まれた、ベルナドッテ王朝第5代のスウェーデン国王である。父は後に国王オスカル2世となるオスカル王子、母はナッサウ公の娘ソフィアで、ルクセンブルク大公アドルフの異母妹にあたる。生まれながらにヴェルムランド公とされ、幼い頃は体が弱いとみなされて電気療法を受けたこともあった。1869年に開校したばかりのベスコフ校で学び、同級生には、のちに社会民主党の党首となり三度首相を務めるブランティングがいた。1872年に叔父のカール15世が没し、父が即位すると、14歳でスウェーデンとノルウェーの皇太子となった。1881年にはドイツのカールスルーエで、バーデン大公の娘ヴィクトーリアと結婚している。

1907年12月8日、父の死により49歳で即位した。当時の統治章典は国王を元首と行政の長と定めていたが、すでに1905年から、首相は議会の信任を得ることが事実上の条件となっていた。第一次世界大戦の前夜には、自由党のスタッフ首相を1914年に退け、ハンマルショルドを後任に据えた。しかし戦争の終盤、スタッフの後継者エデーンの下で自由党と社会民主党が議会の多数を握ると、エデーン内閣の成立を認め、これにより王権は事実上ほとんど失われた。1919年までには女性を含む普通平等選挙が実現した。親ドイツ、反共産主義の立場をとったといわれる。大戦が始まった1914年にはスウェーデンは伝統的な中立を宣言し、12月18日にノルウェー王ホーコン7世、デンマーク王クリスチャン10世をマルメに招いて三国の国王会議を開き、中立政策の維持を表明した。

第二次世界大戦でも中立が保たれた。社会民主党のハンソン首相は国民を動員して、最終的に50万人の国民軍を編成した。ナチス・ドイツの様々な要求を受けるなかで、国王は中立を貫いたとされる。一方で、ドイツからの輸送上の要求を受け入れるよう政府に促したともいわれ、これは今も議論を呼んでいる。政府は中立違反すれすれの政策も取りつつ、1944年に入ると連合国の要求を受け入れていった。1944年夏には、ハンガリーのホルティにユダヤ人の移送を止めるよう自ら働きかけ、外交官ワレンバーグの活動も後押ししたという。戦後のスウェーデンは北欧諸国に軍事同盟を持ちかけたが、成立しなかった。

私生活では大のテニス好きで、1876年のイギリス留学を機に競技を始め、帰国後は国内初のテニスクラブを創設した。偽名を使って選手として試合に出て、目が衰える80代まで続け、没後の1980年に国際テニス殿堂入りを果たした。1912年のオリンピック大会では主宰者を務め、1897年から1907年までスウェーデン体育協会の会長を務めた。10代の頃から鼻眼鏡と先の尖った口髭を身に着け、亡くなるまでその姿を通した。昭和天皇とは、中立を保った数少ない国王として、戦中戦後も互いの誕生日に祝電を交わしたという。

晩年は必ずしも幸福ではなかった。1947年1月に王位継承順位第2位の孫グスタフ・アドルフを航空事故で、1948年9月には甥のフォルケ・ベルナドッテ伯をパレスチナで亡くしている。1950年10月29日、92歳で崩御し、スウェーデン史上最高齢の君主となった。在位は約43年に及び、後を息子のグスタフ6世アドルフが継いだ。

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