HISTORICAL PERSON · 1950年没

オーロビンド・ゴーシュ

インドの民族主義者・ヨーガ指導者・哲学者・詩人。独立運動で投獄された後、ポンディシェリに移ってインテグラル・ヨーガを体系化した。

生涯
1950年没
死亡地
インド(ポンディシェリ連邦直轄領 / ポンディシェリ)
出生地
インド(Sri Aurobindo Bhawan)
出典
世界地図
インド(ポンディシェリ連邦直轄領)

伝記

オーロビンド・ゴーシュは、1872年8月15日にコルカタで生まれたインドの民族主義者、ヨーガ指導者、哲学者、詩人である。父のゴース博士はイギリスで暮らしアバディーン大学で学んだ人物で、子供たちにヨーロッパ式の躾を施すことを固く決心していた。7歳の頃、オーロビンドは2人の兄とともにイングランドへ連れて行かれ、マンチェスターの聖職者ドレウェット夫妻のもとに預けられた。ドレウェットは有能な学者で、ラテン語の基礎を巧みに教えたという。ロンドンのセント・ポール・スクールに進むとギリシア語を習得し、3年次には文学、とりわけイギリスの詩の熟読に時間を費やした。文学や歴史学の賞と、ケンブリッジ大学キングズカレッジの奨学金を授与され、1893年にインドへ帰国した。

帰国後は急進的な民族主義の運動に身を投じた。1905年からのベンガルでは、インドの独立を明確に主張し、その達成のために暴力も辞さないとする過激派のグループの指導者となった。このような主張は、当時の穏健な民族主義者が避けていたものである。反体制の革命組織ジュガンタル党の創設者の1人でもあり、民族主義的なベンガルの新聞の編集者を務めたため、イギリスの支配としばしば衝突した。1907年にはインド民族主義者の大会に出席して、運動の新しい指導者と目されるようになった。その一方で、マハラシュトラ出身のヨーガ修行者レレに会うなど、彼の人生は新たな啓示を受け始めていた。

転機は投獄だった。アリポール爆弾事件の裁判で、彼はコルカタのアリポールの拘置所に約1年間勾留された。その間にヒンドゥー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』を熟考して強い影響を受け、囚人や看守、裁判官、木々までがヴィシュヌの様々な姿に見えるという霊的な体験をしたと、後に語っている。この裁判は被告49人、証人206人、証拠物件5,000点に及ぶ大規模なもので、弁護はチッタランジャン・ダスが担当し、オーロビンドは無罪となった。釈放後は英語の『カルマヨーギン』とベンガル語の『ダルマ』の2つの週刊誌を始めたが、英国政府に目をつけられ、再び逮捕されそうになると、フランス領のポンディシェリに逃れた。1910年4月4日、他の民族主義者とともに隠れ家を見つけたとされる。

ポンディシェリでは4年間ヨーガの修行に集中し、1914年に月刊誌『アーリヤ』を創刊した。主要な著作の大部分は以後の約6年半に連載の形で書かれ、『神の生命』『ヨーガの統合』『ギーターに関するエッセイ集』『ヴェーダの秘密』などがある。1928年にはインテグラル・ヨーガの実践の手引きとして小冊子『母』を発表した。のちには弟子との膨大な書簡が主な執筆活動となり、1930年代後半からは詩の推敲に打ち込んで、約24,000行の無韻詩の叙事詩『サヴィトリ』を残した。思想の上では、世界を最終的にマーヤー(幻影)として拒む伝統的なインド思想を批判し、物質よりも精神の進化を重んじた。

1926年11月24日に人目を避けて隠遁に入ると、パリ生まれのミラ・アルファッサ、通称「マザー」に、集まった門弟の共同体アシュラムの運営を委ねた。彼女はオーロビンドの霊性の親密な協力者であり、1914年に初めてポンディシェリを訪れ、1920年に移住した人物である。オーロビンドは1950年12月5日に没したが、その後もマザーが遺志を受け継ぎ、1960年代半ばには国際都市オーロヴィルを開設し、1973年に世を去るまでポンディシェリに暮らした。

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