HISTORICAL PERSON · 1950年没

ヨーゼフ・シュンペーター

オーストリア出身の経済学者。企業者による不断のイノベーションが経済を変動させるという理論を構築し、経済成長の創案者ともされる。アメリカ経済学会会長も務めた。

生涯
1950年没
死亡地
アメリカ合衆国(コネチカット州 / ソールズベリー)
出生地
チェコ共和国(トジェシュチ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(コネチカット州)

伝記

ヨーゼフ・アロイス・シュンペーターは、1883年2月8日にオーストリア・ハンガリー帝国のモラヴィアのトリーシュ(現在のチェコ東部)にドイツ系の家庭の子として生まれた経済学者である。1901年にウィーン大学法学部に進み、フリードリヒ・フォン・ヴィーザーとオイゲン・フォン・ベーム=バヴェルクの直接の指導を受けた。カール・メンガーやレオン・ワルラス、歴史学派、マルクスの影響も受けている。1905年のベーム=バヴェルクのマルクス・ゼミには、マルクス主義者のオットー・バウアーやルドルフ・ヒルファディング、エミール・レーデラー、のちに自由市場を擁護するルートヴィヒ・フォン・ミーゼスらが集っていた。1906年に法学の博士号を取得し、1908年には初の著書『理論経済学の本質と主要内容』を発表してワルラスの一般均衡理論をドイツ語圏に紹介した。1909年にツェルノヴィッツ大学の准教授、1911年にグラーツ大学の教授となり、1912年に『経済発展の理論』を著した。1913年にはアメリカのコロンビア大学に客員教授として招かれ、名誉博士号を受けている。

『経済発展の理論』で彼は、生産と消費の循環は本来不規則なものであり、冒険心に富む企業者が新しい水路を開くことで経済が動くと論じた。企業者とは単なる経営管理者ではなく、まったく新しい組み合わせで生産要素を結合する者であり、その行為が革新、すなわちイノベーションである。初期には「新結合」という語を用い、新しい財貨の生産、新しい生産方法の導入、新しい販売先の開拓、原料の新しい供給源の獲得、新しい組織の実現という五つの類型を示した。革新がなければ経済は均衡に陥り、企業者利潤は消え、利子もゼロになるため、企業者は創造的破壊を続けなければ生き残れないと考えた。また革新に必要な資金は銀行の信用創造によって新たに生み出されるとして、銀行家を貨幣や信用の生産者と位置づけた。

第一次世界大戦の末期に著した『租税国家の危機』(1918年)では、税があまりに高くなって意欲を損なえば企業家精神は低迷し、租税国家は崩壊しかねないと述べている。戦後にオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊すると、彼は講和条約を祖国にとって死刑宣告に等しい冷酷なものと非難した。1919年2月、社会民主党が主導する政権の財務大臣となり、資本への課税や国の債務の償還などを提案したが、その財政案は理解されずに失敗し、同年に辞任した。1921年にビーダーマン銀行の頭取に就いたものの、1924年に同行が経営危機に陥って解任され、巨額の借金を負った。1925年にボン大学の教授となり、1927年にハーバード大学の客員教授を引き受け、1932年に正教授となった。1931年には初めて来日し、各地で講演をしている。

ロシア革命の当初は肯定的に評価し、マックス・ヴェーバーに「われわれの理論を試すにはよい実験室だ」と答えて怒らせたともいわれるが、のちにはボリシェヴィキを憎悪し、スターリンのソ連を批判した。1939年に『景気循環の理論』、1942年に『資本主義・社会主義・民主主義』を発表し、1940年に計量経済学会、1947年にアメリカ経済学会、1949年に国際経済学会の会長に選ばれた。1950年1月8日、コネチカット州で動脈硬化症のため急死した。遺稿をもとにした『経済分析の歴史』は1954年に出版された。

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