HISTORICAL PERSON · 1950年没

チェーザレ・パヴェーゼ

イタリアの詩人・小説家・翻訳者。20世紀イタリア文学のネオレアリズモを代表する作家の一人で、第二次大戦ではパルチザン活動も行った。

生涯
1950年没
死亡地
イタリア共和国(トリノ県 / トリノ)
出生地
イタリア共和国(サント・ステーファノ・ベルボ)
出典
世界地図
イタリア共和国(トリノ県)

伝記

チェーザレ・パヴェーゼは、1908年9月9日、イタリア北西部ランゲ丘陵地帯の農村サント・ステーファノ・ベルボで生まれた詩人・小説家・文芸評論家・翻訳者である。父エウジェニオはトリノの裁判所に勤め、家族は夏の休暇のたびにこの父の故郷の別荘を訪れていた。パヴェーゼが6歳のとき父は病死した。トリノのダゼッリオ高校では、作家でもある教師アウグスト・モンティに教えを受けた。トリノ大学ではギリシア・ラテン文学やアメリカ文学、フレイザーの『金枝篇』に没頭し、ホイットマンを論じた論文で1930年に卒業した。この頃から、フランス語やドイツ語の詩のほか、メルヴィルやジェイムズ・ジョイスら英米作家の翻訳を手がけ、イタリアではまだ知られていなかった作家を紹介した。しかし翻訳だけでは生活費に足りず、母の死後は姉の家に寄食を続け、高校教師の職を得るためにファシスト党に入党した。一方で、ジュリオ・エイナウディやレオーネ・ギンツブルグらが始めた出版社エイナウディ社にも加わった。

1934年にギンツブルグが逮捕されると、雑誌『クルトゥーラ』の編集長を引き継いだ。ところが1935年にトリノの知識人200人ほどが一斉検挙された事件に巻き込まれ、流刑3年を言い渡されて、南イタリアのカラーブリア州ブランカレオーネに送られた。政治には無関心だったが反ファシズムの人々と交わっており、愛した共産主義活動家の手紙を保管していたことが罪に問われた理由だったともいわれる。流刑地では読書と詩作に専念し、ギリシア語の翻訳も行った。1936年にはギンツブルグの紹介で『ソラーリア』誌から処女詩集『働き疲れて』を出し、その2か月後に恩赦でトリノへ戻った。だがこの時期に、恋人が別の人と婚約したことを知った。

帰郷後は個人教師をしながら詩や短篇を書き、翻訳も続けて、1938年から40年にかけて長篇『流刑』『故郷』『美しい夏』を書き上げた。1938年にエイナウディ社の編集部責任者となり、1941年に新進作家叢書の第1巻として『故郷』を刊行した。この作品はピエトロ・パンクラツィらに高く評価され、ジョヴァンニ・ヴェルガの文体の再発見とも言われた。同年のヴィットリーニ『シチリアでの会話』と並び、ネオレアリズモ文学の源流とされる。戦争末期、ドイツ軍がトリノに入ると友人の多くはパルチザンとして戦いに去ったが、パヴェーゼはカーザレ・モンフェッラート近郊の丘陵地帯へ逃れ、武装闘争には加わらなかったと伝えられる。戦後はイタリア共産党に入り、党の機関紙で働き、主要な作品の多くがこの時期に発表された。若い作家で翻訳家のフェルナンダ・ピヴァーノを導き、彼女が訳した『スプーン・リヴァー詞華集』は1943年に刊行された。

1950年6月、『美しい夏』(『丘の上の悪魔』『孤独な女たち』を併録)でストレーガ賞を受けた。新作『月と篝火』も注目を集めていたが、同年8月27日、トリノ駅前のホテルの一室で服薬により自ら命を絶った。うつ状態や、女優コンスタンス・ダウリングとの短い恋の破局、政治的な幻滅が背景にあったとされる。没後はイタロ・カルヴィーノを中心にエイナウディ社が遺稿を整理し、1951年に詩集『死がきておまえの目をとるだろう』と評論集『アメリカ文学論その他』を、1952年に流刑中から死の直前まで書き継いだ日記『生きるという仕事』を刊行した。

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