HISTORICAL PERSON · 1365年没

ルドルフ4世 (オーストリア公)

ハプスブルク家のオーストリア公で、「建設公」と呼ばれた。偽造文書を駆使して「大公」の称号を詐称した。ツンフト禁止令や貨幣改鋳権の放棄と消費税導入など急進的な改革を進め、1363年にチロルを獲得した。

生涯
1365年没
死亡地
イタリア共和国(ミラノ県 / ミラノ)
出生地
オーストリア共和国(ウィーン)
出典
世界地図
イタリア共和国(ミラノ県)

伝記

ルドルフ4世は、14世紀のハプスブルク家の当主で、オーストリア公である。1339年11月1日、オーストリア公アルブレヒト2世(賢公)とヨハンナ・フォン・プフィルトの長男として生まれ、1365年7月27日に没した。偽造文書を駆使した型破りな行動で知られ、「建設公」と呼ばれる。1358年に父が没すると、弟たちはまだ幼かったため、唯一成人していた20歳のルドルフ4世が単独の統治者となった。翌1359年には家臣に対し、自分はオーストリア公、シュタイアーマルク公、ケルンテン公、クライン公のほか、帝国狩猟長官、シュヴァーベン公、アルザス公、プファルツ大公であると宣言した。後ろの4つは明らかに官名の詐称であった。しかも「大公」という称号は、それまで存在すらしなかった。司教の上に大司教があるように、多くの公を兼ねるハプスブルク家の当主こそ「大公」を名乗るべきだというのが、その主張であった。

ルドルフ4世は、近代的な政策を多く含む改革を、性急かつ強権的に進めた。父の旧臣をことごとく退け、新しく用いた家臣には徹底的な服従を要求した。1360年夏には、オーストリア内のすべての地主に領主権の放棄と土地の売却を命じ、1か月のうちに従わない地主は土地へのあらゆる権利を失うとした。新築の建物は3年間無税とする条例も発した。地主階級は猛烈に抵抗して条例は修正されたが、彼らは公の強権ぶりに恐怖した。1361年春には、貨幣改鋳権を放棄する用意があると宣言し、その代わりに飲食店や宿屋で売られるアルコール飲料に1割の消費税を課すこととした。同じ年の夏には、ウィーンの同業組合に適用される禁止条例を発し、新しく開業した商工業者は3年間、市民税と財産税が無税となった。さらにウィーンで大火事が相次ぎ、凶作でワインの収穫が激減する危機のなか、聖職者への財産寄贈を規制した父の条例を拡大し、聖職者にも税を払わせる条例を出した。教会の裁判権の規制にも手をつけたが、教皇庁の介入を防ぐための根回しも怠らず、破門は免れた。

1361年にルートヴィヒ5世が、1363年1月13日にはその子マインハルト3世が亡くなった。ウィーンで知らせを聞いたルドルフ4世は、雪の中をチロルに急行し、チロルを譲渡する証書に相続人マルガレーテの署名を受け取った。そして証書の日付を強引に改竄し、反対派の貴族が持つ証書の無効を主張して、チロルをハプスブルク家の領地とした。マインハルト3世の叔父である下バイエルン公シュテファン2世が相続権を主張して送った軍勢も、チロルから徴収した軍資金で軍勢を揃えて撃退した。さらにカール4世が裁定に乗り出し、娘婿であるルドルフ4世のチロル獲得が承認された。

「大公」の称号については、カール4世が証拠を出すように言い渡した。ルドルフ4世は5通の特許状と2通の手紙を提出したが、すべて偽造であった。手紙の差出人は古代ローマのユリウス・カエサルと皇帝ネロとなっていた。調査を依頼されたペトラルカは、鑑定結果を知らせる手紙に「この御仁はとんでもない大うつけです」と書いている。カール4世は決定的な対決を避け、この詐称はうやむやにされた。のちの皇帝フリードリヒ3世の時代には、この偽造文書は「大特許状」として帝国法に組み込まれ、「大公」はハプスブルク家にだけ許される正式な称号となった。ルドルフ4世は、ウィーンのシュテファン大聖堂やウィーン大学の建設でも知られ、1365年、26歳で世を去った。妃のカタリーナとの間に子がなかったため、オーストリアは弟のアルブレヒト3世とレオポルト3世が相続した。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物