伝記
ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ウィトゲンシュタインは、1889年4月26日、オーストリア・ハンガリー帝国の首都ウィーンに、ヨーロッパ有数の裕福な家庭の末っ子として生まれた哲学者である。祖父はユダヤ教からルター派に改宗してウィーンに移った商人で、父カールは製鉄業で莫大な富を築いた。母レオポルディーネはカトリックで、ピアニストとしての才能に恵まれ、ブラームスやマーラーらと親交を結んだ。家にはさまざまな文化人が出入りし、クリムトも庇護を受けて姉マルガレーテの肖像を描いている。兄パウルはピアニストとなり、第一次世界大戦で右腕を失ったのちも活躍して、ラヴェルらが左手だけで弾ける曲を彼のために作った。ルートヴィヒ自身はクラリネットを吹き、音楽への傾倒は生涯続いて、著作にもしばしば音楽の例えが現れる。一方、家族にはうつ病や自殺の傾向があり、兄4人のうちパウルを除く3人が自殺し、彼自身も自殺の衝動と戦い続けたという。4歳まで言葉を話せず、重い吃音もあったため、1903年まで自宅で教育を受けた。
その後、リンツの高等実科学校に3年間通い、ここには同じ学校の生徒としてヒトラーもいた。姉の勧めでショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』を読んだ。1906年からベルリンの工科大学で機械工学を学び、卒業後はマンチェスターで凧の研究に加わり、マンチェスター大学ではブレード端の小型ジェットの推力で回るプロペラの設計に携わって、1911年に特許を認められた。数学への関心からラッセルの『数学原理』を読んで数学基礎論に惹かれ、フレーゲの勧めで1911年秋にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジのラッセルを訪ねた。ラッセルは少し話しただけで、その並外れた才能を見抜いたという。翌1912年にトリニティ・カレッジに入学し、ラッセルやムーアのもとで論理の基礎を研究して、ケインズとも知り合った。
1913年に父の死を看取るためウィーンへ戻り、莫大な遺産の一部を匿名で芸術家に寄付した。その後はノルウェーの山小屋に隠遁して研究に打ち込み、この頃に『論理哲学論考』の元になる着想が書かれた。当時書いた論理学の論文で学位を得ようとムーアを通じて大学に打診したが、注が付いていないため規定を満たさないと返答され、激しく罵倒した。この一件で友人と学位を一度に失い、取り戻すのは15年後のことになる。1914年に第一次世界大戦が始まると志願兵となり、孤独に悩んで自殺も考えたが、書店で見つけたトルストイの福音書解説書を読んで信仰に目覚め、戦友から「福音書の男」と呼ばれた。塹壕で読んだ雑誌の交通事故の記事の図解が、写像理論の着想になったと後年語っている。前線での働きで二度、勲章を受けた。1918年に休暇先で『論考』を脱稿したが出版社には断られ、同年11月に降伏直前のイタリア軍の捕虜となり、1919年8月に釈放された。
戦後はオーストリアに戻って小学校教師となったが、生徒を虐待したとされて辞職した。その後トリニティ・カレッジに復学し、のちにケンブリッジ大学の教授となって、記号論理学中心だった『論考』の姿勢を改めて、コミュニケーションの行為に重点を置く後期の哲学の再構築に取り組んだが、完成には至らなかった。遺稿となった『哲学探究』がその試みを伝えている。生涯独身で、1951年4月29日、癌のため62歳で亡くなった。死後は友人によってカトリック式の埋葬を受けた。
同じ年に亡くなった人物
- ロバート・ウォーカー (1918年生の俳優) (1951年没)
- ルネ・ゲノン (1951年没)
- シモン・バレル (1951年没)
- アルフォンス・ジョルジュ (1951年没)
- エレナ・ドルレアンス (1951年没)
同じ地域に関係する人物
- マイケル・ベイツ (俳優) (1978年没)
- デーヴィッド・ケイリン (1963年没)
- ロビン・ヒル (生化学者) (1991年没)
- ジェイムズ・ワーディー (1962年没)
- ウィリアム・ホッジ (1975年没)