伝記
アルノルト・シェーンベルクは、1874年9月13日にウィーンで生まれたオーストリアの作曲家、指揮者、教育者である。調性音楽を脱して無調に入り、「十二音技法」を創始したことで知られる。父は代々ハンガリーに住むユダヤ人で靴屋を営み、母もプラハ出身のユダヤ人だった。3人兄弟の長男で、初めはカトリックのキリスト教徒として育てられた。8歳からヴァイオリンを習い、チェロは独学で学んだが、高校を中退し、15歳で父を亡くすと、経済的に立ち行かなくなって地元の銀行に勤め、夜に音楽の勉強を続けた。1895年に銀行を辞めて音楽家として生きる決意をし、当初はアマチュア合唱団の指揮などで生計を立てた。
同年、アマチュア・オーケストラでアレクサンダー・フォン・ツェムリンスキーと出会って師事した。若い頃はブラームスに傾倒していたが、師の影響でワーグナーの音楽にも目覚め、マーラーの家にも出入りした。1898年にはツェムリンスキーの指導下で作った『弦楽四重奏曲 ニ長調』がウィーン音楽家協会の演奏会で高い評価を得た。1900年からは、カンタータやオペラの要素が融合した大作『グレの歌』に着手したが、経済的な困窮から中断を余儀なくされ、完成は1911年までかかった。この間にはベルリンで流行歌やキャバレー・ソングの編曲も手がけている。1901年に師の娘マティルデと結婚し、1904年にはツェムリンスキーと「創造的音楽家協会」を設立したが、財政上の理由で1年ほどで解散した。教職活動を通じて、アントン・ウェーベルンやアルバン・ベルクといった新ウィーン楽派の中核となる人物が周りに集まった。
やがて後期ロマン主義の作品から、調性の枠を超える方法を模索するようになり、1908年の『弦楽四重奏曲第2番』の終楽章や歌曲集『架空庭園の書』で初めて無調に到達したとされる。この時期には、妻マティルデが画家リヒャルト・ゲルストルと駆け落ちする事件が起き、ウェーベルンの説得で妻は戻ったものの、ゲルストルは自殺した。彼自身も非常に苦悩し、自殺を考えたという。画家としても活動し、カンディンスキーら「青騎士」の画家たちと交流した。1911年に大著『和声学』を刊行し、同年に親交のあったマーラーが没した。ウィーンで反ユダヤ主義が激化していたこともあり、マーラーの死の3か月後にミュンヘンへ移り、ベルリンで教職を得た。1912年のメロドラマ『月に憑かれたピエロ』は成功を収め、1913年には『グレの歌』が初演されて大成功となった。
第一次世界大戦で召集されたため、オラトリオ『ヤコブの梯子』は未完に終わった。無調に代わる方法論の必要を考えた末に確立したのが十二音音楽で、12の音を1つずつ使った音列を基に、メロディーや伴奏を作る。最初の作品は、全曲が十二音技法で書かれた『ピアノ組曲』の「前奏曲」(1921年)である。ただし、同僚のヨーゼフ・マティアス・ハウアーが2年ほど早く12音の音列による作曲法を考案していたため、独創とは言えないともいわれる。1934年にナチス・ドイツを逃れてアメリカに移住し、南カリフォルニア大学とカリフォルニア大学ロサンゼルス校で教え、弟子にはジョン・ケージらがいる。亡くなる直前まで合唱曲『現代詩篇』を作曲していたが未完に終わり、1951年7月13日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- セルゲイ・ヴァヴィロフ (1951年没)
- アブドゥッラー1世 (1951年没)
- 杜月笙 (1951年没)
- エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカー (1951年没)
- ロバート・グラント・エイトケン (1951年没)
同じ地域に関係する人物
- チャールズ・ウォルタース (1982年没)
- マイケル・ララビー (2003年没)
- ドン・ハトソン (1997年没)
- デヴィッド・ドイル (1997年没)
- ニール・ハミルトン (1984年没)