伝記
アルノルト・ゾンマーフェルトは、1868年12月5日、ケーニヒスベルク(現在はロシア領のカリーニングラード)に生まれたドイツの物理学者である。原子物理学や量子力学の開拓的な研究を行い、微細構造定数などを導入した。父フランツは同地の有力な家の出の医師で、母はポツダムの建築業者の娘だった。洗礼を受けたプロテスタントで、熱心な信者ではなかったが、信仰を捨てることはなかったという。
ケーニヒスベルク大学で数学と自然科学を学び、数学者リンデマンの指導を受けた。ヒルベルトやフルヴィッツの講義にも触れている。学生組合に加わったため顔に決闘の傷が残り、口ひげを上げた体格と相まって、騎兵大佐のような印象を与えたという。1891年10月24日に博士号を得て、1892年に教員資格試験に合格し、1年間の兵役を務めた。1893年10月、数学の中心だったゲッティンゲン大学に移り、鉱物学研究所の助手となった。翌1894年にはフェリックス・クラインの助手になり、1895年にクラインの下で教授資格を取得して私講師となった。クラインとは、回転体の理論を扱う四巻の書『こまの理論』を1897年から1910年まで13年かけて共著している。この共同研究は、彼を応用数学と講義の技へと向かわせたとされる。
1897年10月にはザクセンのクラウスタール鉱山アカデミーで数学の教授となり、ヴィルヘルム・ヴィーンの後任を務めた。この収入によって、ゲッティンゲンで知り合ったヨハンナ・ヘプフナーと結婚できたとされる。クラインの求めで『数学百科事典』第5巻の編集も引き受け、この仕事は1898年から1926年まで続いた。1900年にはクラインの尽力でアーヘン工科大学の応用力学の教授となり、流体力学の理論を研究した。流体潤滑に関する無次元量ゾンマーフェルト数に名を残し、現在のトライボロジーの礎を築いた一人として、「トライボロジーの23人」にも数えられている。
1906年からミュンヘン大学の物理学の教授となり、アインシュタインの特殊相対性理論に数学的な基礎を与える研究を行った。金属内の自由電子の量子論などでも業績をあげ、ボーアの量子条件を一般化した成果は、ボーア・ゾンマーフェルトの量子条件と呼ばれる。方位量子数にあたる第二の量子数と、磁気量子数にあたる第三の量子数を導入し、X線の波動論でも先駆的な仕事をした。教育者としても知られ、七人のノーベル賞受賞者の指導にあたり、ほかに少なくとも30人の著名な物理学者や化学者を育てたとされる。弟子には、ハンス・ベーテ、ピーター・デバイ、ヴァルター・ハイトラー、ヴェルナー・ハイゼンベルク、ヴォルフガング・パウリらがおり、ノーベル賞を受けた者も多い。「才能ある若者を発掘して伸ばす能力」はボルンやアインシュタインから賞賛された。1924年にマテウチ・メダルを受け、1926年には英国王立協会の外国人会員に選ばれた。さらに1931年にマックス・プランク・メダル、1939年にローレンツ・メダル、1949年にエルステッド・メダルを受けている。1951年4月26日、ミュンヘンで交通事故により重傷を負い、それが元で死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ロバート・ウォーカー (1918年生の俳優) (1951年没)
- エーリヒ・ナウマン (1951年没)
- トム・カイリー (1951年没)
- ヘンリー・テイラー (1951年没)
- アルフォンス・ジョルジュ (1951年没)
同じ地域に関係する人物
- ゲオルク (バイエルン公) (1503年没)
- カールマン (東フランク王) (880年没)
- オイゲン・ロート (1976年没)
- ドーラ・ペヤチェヴィチ (1923年没)
- コンラート・マウラー (1902年没)