伝記
ウィリアム・ランドルフ・ハーストは、1863年4月29日にカリフォルニア州サンフランシスコで生まれたアメリカ合衆国の実業家・新聞発行人で、新聞王と呼ばれた。父ジョージはゴールドラッシュの時代に銀鉱山を当てて富豪となり、のちにカリフォルニア州選出の上院議員になった。母フィービーはミズーリ州の学校の教師だった。十歳のときに母とヨーロッパ中を旅して見聞を広め、十六歳でセント・ポール高校に入った。ハーバード大学にも1882年から1885年まで在籍したが、学位を取らずに退学している。
1887年、父が賭博の担保として手にしていた「サンフランシスコ・エグザミナー」紙を譲り受けた。同紙を「ザ・モナーク・オブ・ザ・デイリーズ」と改名し、最良の設備と才能ある書き手を得て、汚職の暴露などを数多く発表した。1895年にはニューヨーク・モーニング・ジャーナル紙を買収し、ニューヨーク・ワールド紙の所有者ジョーゼフ・ピューリツァーとの激しい発行部数競争に入った。両紙は読者を増やすためにキューバの暴動の記事を競って載せたが、真実を伝えるより市民感情をあおる扇情的なものが多く、スペイン軍がキューバ人を収容所に入れて病気と飢えで死なせたといった捏造記事で世論を動かし、1898年の米西戦争を引き起こしたとも言われる。このような紙面の作り方は、紙上の漫画「イエロー・キッド」にちなんでイエロー・ジャーナリズムと呼ばれた。マッキンリー大統領の暗殺をめぐっては、事件の数か月前に出版したアンブローズ・ビアスの風刺詩が暗殺をほのめかすものだと指摘され、痛手を受けた。
1903年にニューヨークで、二十二歳のショーガール、ミリセント・ウィルソンと結婚した。出会いは彼女が十六歳の時で、二人は五人の息子をもうけたが、1926年に別居したが、婚姻関係はハーストの死まで続いた。1903年から1907年にかけて合衆国下院議員を務め、1906年のニューヨーク州知事選ではチャールズ・エヴァンス・ヒューズに敗れた。この間、第一次世界大戦へのアメリカの関与に反対し、国際連盟も攻撃した。新聞チェーンと通信社の国際通信社に加え、定期刊行物には「シカゴ・エグザミナー」「コスモポリタン」「ハーパース・バザー」などが含まれた。最盛期には二十八の主要な新聞と十八の雑誌のほか、ラジオ局や映画会社も所有した。
1920年代には、サン・シメオンの広大な農場に、動物園まで備えた絢爛豪華な城、通称ハースト・キャッスルを築いた。この頃に女優のマリオン・デイヴィスと知り合って妻と別居し、彼女のために映画会社コスモポリタン社まで設立して自分の新聞で大々的に売り出したが、その露骨なやり方は大衆をしらけさせた。1924年11月、愛人のデイヴィスやチャップリンらと催した大型ヨット「オナイダ号」の航海中に、映画プロデューサーのトーマス・インスが心臓発作で死亡し、ハーストが射殺したという噂が流れたが、隠蔽はなかったというのが一般的な見解である。1930年代にはナチス・ドイツに影響され、ヒトラーを「真の自由主義者」と呼んだとされる。
世界恐慌は財務状態を弱め、1940年頃には巨大な帝国の支配を失った。1951年8月14日にカリフォルニア州ビバリーヒルズで死去した。遺言で家族信託を設け、ハースト・コーポレーションはいまもニューヨークに本拠を置く巨大なメディア企業として続いている。オーソン・ウェルズの映画「市民ケーン」はその生涯を描いたものとされ、ハーストは公開を妨害しようと影響力を行使した。作品は死後に評価を回復した。
同じ年に亡くなった人物
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- セルゲイ・ヴァヴィロフ (1951年没)
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