伝記
後光厳天皇は、日本の北朝の第4代天皇である。諱は弥仁といい、1338年3月23日に光厳上皇の皇子として生まれた。母は正親町三条秀子で、兄に崇光天皇がいる。出生の直後から持明院統の重臣の日野資名に預けられ、のちには資名の後室の芝禅尼に養育された。光厳上皇は従弟の直仁親王への皇位継承を計画していたため、三宮と呼ばれた弥仁は、将来は妙法院に入ることになっていた。
1351年に、足利尊氏が南朝に帰順し、南朝の後村上天皇によって崇光天皇が廃位され、北朝は一時解消された。しかし1352年閏2月、南朝は和平を破って京都に侵攻した。足利義詮はいったん京都を奪い返したが、南朝は撤退のとき、光厳上皇、光明上皇、崇光上皇、直仁親王を連れ去り、賀名生に幽閉した。三宮の住む上京には多数の武士が集まり、三宮は難を逃れた。天皇の座が空いたまま、都では朝儀がほぼ全て中止され、朝廷や幕府の要職も空席が続いた。そこで幕府の意を受けた佐々木道誉が、三宮の践祚と、三宮の祖母にあたる広義門院の執政を申し入れた。1352年8月17日、弥仁は土御門東洞院殿で践祚した。三種の神器は南朝に渡っていて揃わなかったが、神鏡を納めていた唐櫃が石清水八幡宮に残っており、これを神鏡の代わりとした。上皇の詔もなかったため、群臣に擁立された古代の継体天皇の先例が引かれた。神器なしで即位した不安を口にした後光厳に、関白の二条良基は、天照大神を鏡に、足利尊氏を剣に、自分を璽と思うようにと進言したと伝えられる。
即位後も苦難が続いた。再建された北朝は、財政難と人材難に苦しんだ。1353年夏に南朝軍が京都に迫ると、足利義詮に伴われて美濃国小島に行幸した。南朝は後光厳を「偽主」と呼び、その践祚に出仕した者や小島行幸の供奉者を処罰したが、後光厳も供奉しなかった廷臣の所領を没収している。9月に帰京し、1354年11月には大嘗祭を行ったが、同じ年の12月に再び南朝軍が迫って近江国武佐寺へ逃れ、翌1355年3月に還幸した。1356年には、足利尊氏の執奏を受け、二条為定に『新千載和歌集』の撰進を命じた。武家の執奏による勅撰集の下命は、史上初のことだった。1357年2月に光厳法皇らが帰京したが、法皇と後光厳はとりわけ不仲となった。この年、二条良基の『菟玖波集』を史上初の准勅撰連歌集としたが、12月にまた南朝軍が迫り、近江国に逃れて、翌年2月に帰京した。結局、3度にわたって京都を追われた。
戦況が落ち着いた貞治年間の前後には、廃れた朝廷の行事を興す動きが高まった。1361年には15年ぶりに最勝講が行われ、1363年には二度目の勅撰集『新拾遺和歌集』の編纂を命じた。1367年の中殿歌会では、史上初めて将軍の義詮が参加した。年中行事に出席する公卿の数も、少しずつ回復していった。
在位が20年近くになると、後光厳は自身の皇子への譲位を望むようになった。兄の崇光上皇は、自身の皇子の栄仁親王に皇位を継がせようと主張して対立した。後光厳は幕府の支持を得て、1371年3月、第二皇子の緒仁親王に譲位した。後円融天皇である。兄弟は初めは仲がよかったと伝わるが、この件で絶交状態になった。上皇となって院政を敷き、公家訴訟法の『応安法』を成立させたが、興福寺の衆徒が強訴を起こして激しく対立した。そのさなかに疱瘡を患い、1374年1月に崩御した。37歳だった。葬儀は泉涌寺で行われ、これ以降、幕末までの天皇家の葬儀は、基本的に泉涌寺で営まれることになった。
同じ年に亡くなった人物
- 倪瓚 (1374年没)
- ヘルヴィ・ア・スレースヴィ (1374年没)
- ジャンヌ・ド・フランドル (1374年没)
- ボギスラフ5世 (ポメラニア公) (1374年没)
- マグヌス4世 (スウェーデン王) (1374年没)
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