伝記
ポール・エリュアールは、1895年12月14日、パリ北郊のサン=ドニで、会計士の父と裁縫師の母の子ウジェーヌ=エミーユ=ポール・グランデルとして生まれたフランスの詩人である。エリュアールという姓は、二十一歳のとき母方の祖母フェリシーの相続人となったことによる。社会主義者だった父はのちに不動産会社を設立した。サン=ドニ、次いでオルネー=スー=ボワの小学校に通い、一家は1908年にパリ10区へ越した。コルベール高等小学校に入ったが結核を患い、1912年7月に学業を断念してスイスで療養した。喀血のために滞在が延び、1914年2月までダヴォスの療養所で過ごした。
この療養所で、のちに妻となるロシア生まれのエレナ・イヴァノヴナ・ディアコノワと出会った。教養豊かで独立心が強く奔放な彼女にひかれ、ガラと呼んだ。療養中にネルヴァルやボードレール、ヴェルレーヌ、ランボー、ロートレアモン、アポリネール、ホイットマンなどを読み、詩作を始めて自費出版した。1914年8月に第一次世界大戦が始まり、12月に動員されて補助部隊に配属された。1916年8月からはソンム県の野戦病院に転属し、負傷者の苦しみと戦争の恐ろしさを目の当たりにして、厭戦感から平和主義・自由至上主義へ傾いた。ガラは1916年9月に渡仏し、二人は1917年2月21日に結婚して、翌年5月に娘セシルが生まれた。『義務』で初めて「ポール・エリュアール」の筆名を使い、1918年には反戦詩の小冊子『平和のための詩編』を印刷して、多数の作家に郵送した。
終戦直後、トリスタン・ツァラや、ダダの文芸誌『リテラチュール』を創刊したばかりのアラゴン、ブルトン、スーポーに出会い、ダダの運動に加わった。自らも『プロヴェルブ』誌を創刊したが、短命に終わった。1921年にはツァラとブルトンの対立が表面化し、エリュアールは当初ツァラ側にいたものの、1923年7月の「髭の生えた心臓の夕べ」の騒ぎでピカソが侮辱されたのを機に、ツァラと決別した。この間、1921年に画家マックス・エルンストと出会い、1922年8月には彼の不法入国を助けて自宅に迎え、ガラを含めた三人の生活が始まっている。ガラとの関係に悩んで精神的な危機に陥った彼は、1924年3月に失踪し、七か月かけてオセアニアを旅して10月に帰国した。同じ年にシュルレアリスム宣言が出され、エリュアールは雑誌『シュルレアリスム革命』にも詩を寄せた。1926年末から翌年にかけて、アラゴンやブルトンらとともに共産党に入党している。
1927年に詩集『苦悩の首都』、1929年にガラに捧げる『愛・詩』を発表した。同年、ダリに会うためにカダケスを訪れたとき、ガラはダリにひかれ、1934年に彼と正式に結婚した。エリュアールは1930年にアルザス生まれの女優マリア・ベンツと出会い、ヌーシュと呼んで四年後に結婚し、1946年に彼女が急死するまで十六年を共に生きた。
ナチス・ドイツの占領下の1942年、「わたしは生まれてきた、きみを知るために、きみの名前を呼ぶために、自由と」と歌う詩を発表した。この詩は英国空軍機からフランス全土にまかれ、国民やレジスタンスの士気を高めたとされる。1943年にはレジスタンスの詩人二十二人のアンソロジーを編み、深夜叢書から刊行した。ゲルニカ爆撃に抗議するピカソの絵に合わせて詩「ゲルニカの勝利」を発表したのを機に、戦後は平和運動を展開し、1951年には鳩と女性の顔を重ねたピカソの石版画に詩を添えた『平和の顔』が出た。1952年11月18日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ユリアン・マルフレフスキ (1952年没)
- Efim Bogoljubov (1952年没)
- ヴィルム・ホーゼンフェルト (1952年没)
- ビリー・ヒューズ (1952年没)
- ジャン・タロー (1952年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョゼフ・デジャック (1865年没)
- アンドレ・マルロー (1976年没)
- ロジェ・カイヨワ (1978年没)
- ミシェル・シモン (1975年没)
- Georges Maton (1998年没)