HISTORICAL PERSON · 1952年没

ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランド

イタリアの外交官・政治家。第一次世界大戦当時の首相で、パリ講和会議の首席全権を務めた。法学教授でもあり、100を超える法律関係の著書を残した。

生涯
1952年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(パレルモ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ヴィットーリオ・エマヌエーレ・オルランドは、1860年5月19日、シチリアのパレルモに生まれた。父は大地主で、ガリバルディの千人隊がイタリア統一のためシチリアに上陸した直後だったため、出生届の提出を遅らせたという。パレルモ大学で法学を教える著名な法学者となり、法律や判例に関する著作は100を超える。1897年にパルティニーコ地区から下院議員に選ばれ、1925年まで再選され続けた。この間、5回首相を務めたジョリッティを支援した。

自由主義派の政治家として、1903年にジョリッティ内閣の文部大臣、1907年から1909年まで法務大臣を務め、1914年11月にはサランドラ内閣で再び法務大臣、1916年にはボセッリ内閣で内務大臣となった。1917年10月のカポレットの大敗でボセッリ内閣が倒れると、同月30日に首相に就任した。最初に行ったのは、総司令官カドルナを解任してディアズを後任に据えることだった。軍事への文民の統制を取り戻し、兵士の扱いを穏やかにして、軍事援助・戦争年金省の設置、兵士の生命保険、年次有給休暇の15日から25日への延長などを進めた。カポレットの敗因の調査を命じ、軍指導部に責任があると確認されたが、将軍や閣僚の大量裁判を求める声は退けた。国民の士気は敗戦の後で立て直された。1918年11月のヴィットリオ・ヴェネトの戦いでオーストリア=ハンガリー軍は崩壊し、イタリアは戦勝国としてトレンティーノ、南チロル、ヴェネツィア・ジュリア、イストリア半島の併合を勝ち取った。オルランドは「勝利の首相」と呼ばれるようになった。

1919年のパリ講和会議には首席全権として出席し、ロイド・ジョージ、クレマンソー、ウィルソンと並ぶ四巨頭の一人とされた。ただ、外相ソンニーノとは方針が食い違い、オルランドはフィウメを得る代わりにダルマチアの割譲権を放棄する考えだったが、ソンニーノはダルマチアこそ重要だと主張した。結局イタリアは両方を要求したが、ウィルソンの民族自決の方針のもとでいずれも得られなかった。オルランドは同年4月に突然会議を退席し、翌月に戻った。クレマンソーは彼を泣き虫呼ばわりし、本人も要求が通らないと分かったときは壁に頭をぶつけて泣いたと語ったという。1919年6月23日に首相を辞職し、12月に下院議長となった。フィウメを得られなかったことは、ダンヌンツィオから「損なわれた勝利」と批判され、のちのファシズム台頭の一因となった。

1922年にムッソリーニが政権を取った当初はこれを支持したが、1924年のマッテオッティ暗殺を機に離反し、1925年の選挙で落選した。1935年のエチオピア侵攻は支持した。1943年7月には、ムッソリーニの解任を考える国王から内密に相談を受け、翌月、国王とバドリオが出した新政府の宣言を起草した。1946年には制憲議会の暫定議長として王政廃止と共和国樹立に一定の役割を果たし、1948年に元老院の終身議員に指名された。マフィアから脱会した証言者ブシェッタは、オルランドがその「名誉会員」だったと証言しており、本人も1925年に上院でマフィアの一員であることを誇るかのような演説をしたとされる。秘密結社フリーメーソンのロッジにも所属していた。1952年12月1日、ローマで死去した。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物