伝記
アレクサンドラ・ミハイロヴナ・コロンタイは、旧姓をドモントーヴィチといい、ユリウス暦1872年3月19日(グレゴリオ暦3月31日)、帝政ロシアのサンクトペテルブルクの裕福な家庭に生まれた。父ミハイルは13世紀まで遡る名門貴族の出の軍人で、1877年の露土戦争では将軍を務め、1878年から1879年には駐ブルガリア公使となった。母アレクサンドラはフィンランドの裕福な材木商の娘で、両親はともに再婚であった。母の前夫との子には、名ソプラノ歌手エヴゲーニャ・ムロヴィンスカヤがおり、コロンタイの異父姉にあたる。長兄の子は指揮者のエフゲニー・ムラヴィンスキーで、コロンタイの甥にあたる。
21歳で結婚して子ももうけたが、次第にマルクス主義に傾き、1898年に家庭を捨ててチューリヒ大学でマルクス主義の研究に入った。1899年にロシア社会民主労働党に入党し、1903年に党がメンシェヴィキとボリシェヴィキに分裂すると、はじめは中立の立場をとったが、やがてボリシェヴィキと距離を置いてメンシェヴィキに属した。1905年の第一革命を機に革命家としての活動を活発にし、階級闘争の視点から女性問題を取り上げて、当時の婦人運動の主流であった男女同権論をブルジョワ的だと批判した。1908年にはドイツに亡命し、『フィンランドと社会主義』を出版してフィンランド人に帝政への決起を促した。ドイツではローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒトを訪ねている。
1914年に第一次世界大戦が始まるとボリシェヴィキに転じ、亡命生活を終えて帰国した。1917年の十月革命でレーニンを首班とするソビエト政権が成立すると、保健人民委員に就任し、ソビエト国家で最も重要な女性政治家となった。1919年には、世界で最初の女性政策担当部局である女性部(ジェノーデル)を創設した。女性部は結婚、女子教育、労働法などに新しい制度をもたらしたが、1930年に廃止された。一方でコロンタイは、ブレスト=リトフスク条約をめぐって対独講和を主張するレーニンに反対し、党内左派の「労働反対派」に加わったが、反対派はレーニンによって瓦解し、実質的な政治過程から遠ざけられた。
1920年代からは国内に実質的な影響力のない外交職を歴任することになった。1923年には駐ノルウェー大使に任命され、世界最初の女性大使となった。その後、メキシコやスウェーデンの大使、国際連盟代表部員を務め、1933年にレーニン勲章を受けた。第二次世界大戦中はスウェーデン大使で、ナチス・ドイツとの交渉は実際にはなかったとされる。多くの古参ボリシェヴィキが大粛清で一掃されるなかで生命を保障され、外交官として海外の要職を歴任したが、国内政策への影響力は失われており、事実上の追放だったといえる。1952年3月9日に死去した。
自由恋愛を主張したために非難も受けたが、その論は単なる放縦の奨励ではなく、社会主義のもとで男女間の不平等や男性による女性の搾取が解消されると考えたものだった。結婚と家族については、来るべき共産主義社会では解体され、子供の養育と教育は家族ではなく社会が担うと説いた。小説『ヴァシリーサ・マルイギナ』は「紅い恋」の題で翻訳され、昭和初期の日本でも流行した。
同じ年に亡くなった人物
- ユリアン・マルフレフスキ (1952年没)
- チャールズ・シェリントン (1952年没)
- ヨハン・ニューゴースヴォル (1952年没)
- Paul Nemenyi (1952年没)
- カレン・ホーナイ (1952年没)
同じ地域に関係する人物
- Alexander Mikulin (1985年没)
- アルカーディ・シュベツォフ (1953年没)
- ヴィトールド・クレール (2020年没)
- アレクセイ・ルイコフ (1938年没)
- ヴィクトル・パニジェーリニク (2020年没)