伝記
ジョージ6世は、1895年12月14日にノーフォークのサンドリンガム・ハウスで生まれたイギリスの国王である。全名はアルバート・フレデリック・アーサー・ジョージといい、のちのジョージ5世と王妃メアリーの第2王子であった。この日は曾祖母ヴィクトリア女王の夫アルバートの命日にあたり、女王は誕生の報せに喜ばなかったと伝えられるが、祖父の王太子エドワードが「アルバートと名付ければ女王を喜ばせられる」と書き送ったところ態度を和らげたという。家族からは「バーティ」と呼ばれた。幼いころは病弱で、すぐに怯えて泣く子といわれ、長く悩まされる吃音症も患った。生来の左利きを5歳の誕生日を機に右手へ矯正され、慢性胃炎やX脚にも苦しんで、痛みを伴う矯正具を脚に着けさせられたという。誕生時の王位継承順位は第4位で、1901年に祖父がエドワード7世として即位すると第3位に、1910年に父がジョージ5世として即位すると兄エドワードに次ぐ第2位となった。
1909年にオズボーン海軍幼年学校に入学し、勉学には不真面目だったとされるが、1911年の卒業試験では首席だった。1913年には訓練航海を経て戦艦コリンウッドに乗り組み、王子であることを隠すため「ジョンソン」と呼ばれた。第一次世界大戦ではユトランド沖海戦に砲塔担当の士官として加わり、殊勲報告書に名が記された。その後、十二指腸潰瘍で1917年に手術を受け、以降の戦闘には出られなかった。1918年に空軍へ移って少年部隊の指揮官を務め、飛行資格を正式に得た最初のイギリス王族となった。戦後の1919年にケンブリッジ大学で歴史学や経済学などを1年学び、1920年にヨーク公に叙せられた。炭鉱や工場の視察を重ねて「産業王子」と呼ばれ、1921年から1939年まで毎年夏に、さまざまな階層の少年を集めたキャンプにも参加した。吃音に由来するおどおどした様子と内気さから、兄エドワードほどには目立たなかったとされる。
当時の王族は他国の王族との婚姻を求められていたが、アルバートは1920年にストラスモア伯の末娘エリザベスと出会い、自由恋愛による結婚を望んだ。エリザベスは1921年と1922年の求婚を断ったが、数年にわたる求婚の末に承諾し、1923年4月26日にウェストミンスター寺院で式を挙げた。のちに2人の王女、エリザベスとマーガレットをもうけている。1936年1月に父が崩御して兄がエドワード8世となったが、兄が離婚歴のあるアメリカ人女性ウォリス・シンプソンとの結婚を望んで議会と対立した。首相ボールドウィンが在位のままの結婚は不可能だと勧告すると、兄は退位を決め、1936年12月11日に弟のジョージが国王ジョージ6世として即位した。
治世はイギリスの国力が相対的に低下し、大英帝国の解体が進む困難な時代だった。1939年にポーランド問題をめぐってドイツと対立し、イギリスは連合国側で第二次世界大戦に参戦する。国王は首相チャーチルと強く連携し、5年に及ぶ戦争の間、国民の士気を支え続けたとされる。戦後は冷戦のなかでイギリスが覇権国の地位を手放すことになり、1947年にはインドとパキスタンが分離独立して、最後のインド皇帝の称号も失った。1949年4月28日には新設されたコモンウェルス首長の初代となった。健康を損ね、1952年2月6日に満56歳で崩御し、王位は長女のエリザベスが女王エリザベス2世として継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- エリーザベト・シューマン (1952年没)
- シャルル・プリニエ (1952年没)
- ベドジフ・フロズニー (1952年没)
- ペトロス・ペルサキス (1952年没)
- パラマハンサ・ヨガナンダ (1952年没)
同じ地域に関係する人物
- マルカム・ブラッドベリ (2000年没)
- Ran Laurie (1998年没)
- ジョン (イギリス王子) (1919年没)
- コーリン・チャップマン (1982年没)
- チャールズ・タウンゼンド (第2代タウンゼンド子爵) (1738年没)