伝記
スヴェン・ヘディンは、1865年2月19日にストックホルムで生まれたスウェーデンの地理学者・中央アジア探検家である。建築業を営む中流の家庭に育ち、小学校の同級生には、のちに経済学者となるグスタフ・カッセルや数学者のイヴァル・フレドホルムがいた。1879年に出版された『カシュガリア』は、1876年から翌年にかけてロシア帝国の外交団がカシュガル地域を訪れた際の報告書で、これに影響を受けて冒険家を志した。著者は外交団の一員で、のちに日露戦争でロシア満州軍総司令官となるアレクセイ・クロパトキンで、ヘディンも1890年にクロパトキンを訪ねている。同じころ、アドルフ・エリク・ノルデンショルドによる北東航路の発見にも感銘を受け、生涯師と仰いだ。
ベルリン大学では、シルクロードの提唱者として知られるリヒトホーフェンの指導を受けて中央アジア探検を決意し、1885年から翌年にかけてペルシアとメソポタミアを旅した。1890年から翌年には、スウェーデン王オスカル2世がペルシアへ送った使節団の一員として、メルヴ、ブハラ、サマルカンド、カシュガルなどを訪れている。1893年から1897年にはロシアのオレンブルクからウラル山脈を越え、パミール高原、タクラマカン砂漠の南辺、青海、オルドスを横断して、張家口を経て北京に着いた。1899年から1902年にはタリム盆地やチベット中部の湖沼地方の北部を探検し、その間の1900年3月28日に古代都市楼蘭の遺跡と干上がったロプノールの湖床を発見して、「さまよえる湖」説を唱えるに至った。1902年には貴族に列せられている。
1905年にはペルシアからインドに入り、レーから西北チベットに侵入して、インダス川、サトレジ川、ブラマプトラ川の水源地方を調べた。シガツェではパンチェン・ラマの歓迎を受け、サトレジ川の源流と、ヒマラヤ山脈の北でこれと平行する山脈を発見している。カイラス山にも赴いたが、チベット人に入山を禁じられた。こうした探検は、パトロンだったロシア皇帝ニコライ2世との個人的な友情なしには成り立たなかったとされ、ノーベル家や、大谷探検隊で知られる大谷光瑞からも援助を受けた。1909年にはイギリスからナイトの称号を得た。中央アジア探検の功績により、1898年に王立地理学会から金メダルを、1903年にはヴィクトリア・メダルを贈られている。1913年からはスウェーデン・アカデミーの終身会員でもあった。1927年には西北科学考査団を組織し、スウェーデン、ドイツ、中国の学者の協力で、地理、考古、生物、民族、人類学など広い分野を調べる大規模な探検を行ったが、新疆の政治情勢の悪化と第二次世界大戦の勃発で、予定は完全には実現しなかった。
1934年にロプノールの復活を自分の目で確かめ、翌年に帰国した。途中で立ち寄ったドイツでヒトラーの歓待を受け、その後も数回ナチス幹部と接触を持ち、自国に対するドイツの動向を探ったとされる。このつながりを使い、ユダヤ人やノルウェーのレジスタンスの活動家を救い出したこともあった。一方で新聞紙上では台頭期のナチスを礼賛したことがあり、戦後のスウェーデンでは、ナチス・ドイツに協力した人物として厳しく批判された。日本との関わりも深く、1898年から1900年ごろから大谷光瑞と交流があり、1908年と1923年に来日して、1908年には明治天皇に謁見した。晩年まで探検に関する著述を続け、1952年11月26日にストックホルムで没した。
同じ年に亡くなった人物
- ヴラジミール・クレメンティス (1952年没)
- モリス・デワール (1952年没)
- ジャック・コンウェイ (映画監督) (1952年没)
- エドウィン・コンクリン (1952年没)
- パラマハンサ・ヨガナンダ (1952年没)
同じ地域に関係する人物
- スヴェン・リンドベルイ (2006年没)
- ヘートヴィヒ・エリーザベト・シャルロッテ・フォン・シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ (1818年没)
- ユッシ・ビョルリング (1960年没)
- オスカル・ビョルク (1929年没)
- アドルフ・ヴィークルンド (1950年没)