HISTORICAL PERSON · 1952年没

ハティ・マクダニエル

アメリカの女優。ハリウッドではメイド役が多かったが、『風と共に去りぬ』でアカデミー助演女優賞を受賞し、黒人として初めてオスカーを受賞した。

生涯
1952年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / ウッドランド・ヒルズ)
出生地
アメリカ合衆国(ウィチタ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

ハティ・マクダニエルは、1893年6月10日にアメリカ合衆国カンザス州ウィチタで生まれ、1952年10月26日にロサンゼルスで没した女優、歌手である。『風と共に去りぬ』でアカデミー賞の助演女優賞を受け、黒人として初めてオスカーを手にした人物として知られる。

十三人きょうだいの末っ子で、両親は奴隷制を経験した世代だった。母スーザン・ホルバートはナッシュヴィル出身のゴスペル歌手、父ヘンリー・マクダニエルはリッチモンド出身のバプテスト派の牧師で、南北戦争では合衆国有色人種部隊の歩兵連隊に加わって戦った。1900年に一家はコロラド州へ移り、フォート・コリンズを経てデンバーに住んだ。ハティはデンバーの高校に1908年から1910年まで通い、1908年には婦人キリスト教禁酒同盟の後援する朗読の大会に出て、のちに自分は一位になったと語ったという。兄サムも芸人として知られ、姉妹のエッタも女優だった。

芸の道に入ったのは、兄オーティスの率いる、ミンストレル・ショーの一座で曲を作り歌う腕を磨いたことによる。1909年ごろには学校をやめ、一座「マイティ・ミンストレルズ」で歌って踊った。1911年には姉妹のエッタ・ゴフとともに、女性だけの出し物を手がける一座「マクダニエル・シスターズ」を始めたが、1916年に兄オーティスが亡くなると、一座の経営は悪化していった。1920年代の初めにはジョージ・モリソンの楽団「メロディ・ハウンズ」に加わり、五年にわたって各地を巡業した。デンバーの放送局KOAのラジオで歌う機会を得たのもこのころで、最初の人気を得た。1922年には夫と父を相次いで亡くしている。1926年から1929年にかけては、シカゴなどでオーケーやパラマウントなどのレーベルに多くの曲を吹き込み、十六枚を録音して、そのうち十枚が発売されたという。黒人としては初めてラジオで歌った人物の一人とされる。

1929年の株式市場の暴落のあと、ミルウォーキーのクラブでウェイトレスや皿洗いとして働き、店主に頼み込んで舞台に立つ機会を得た。1931年にロサンゼルスの兄サムと姉エッタのもとに身を寄せ、ラジオ局に勤める兄の紹介で、自分の出し物の枠を持った。そこで「ハイハット・ハティ」という、身の程をわきまえない家政婦の役を演じて大変な人気を得たが、受け取る給料はわずかで、実際に家政婦としても働かざるをえなかった。1932年の『黄金の西部』で映画に初めて出演し、家政婦の役を演じた。次いでメイ・ウェストの当たり作(1933年)にも、黒人の侍女の一人として出ている。1934年にはジョン・フォード監督の映画で、初めて名前が配役に載り、ウィル・ロジャースとの二重唱で歌の才も示した。この年に映画俳優組合にも加わった。ハリウッドでの役はほとんどメイドだったが、『風と共に去りぬ』でヴィヴィアン・リー演じるスカーレットの乳母役を演じ、アカデミー賞を受けた。

その一方で、生涯を通じて人種差別と人種隔離にさらされた。アトランタで開かれた同作の初公開は、白人専用の映画館だったため、出席できなかった。授賞式の会場だったロサンゼルスのホテルも白人専用で、特別に入場を許されたものの、席は会場の脇に離れた卓だった。1952年に没した際、ハリウッドの墓地に葬ってほしいという最後の望みは、白人だけの墓地だったために断られたという。

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