HISTORICAL PERSON · 1953年没

ハンク・ウィリアムズ

アメリカのシンガーソングライターで、カントリー音楽史上最も重要な人物の一人。1947年から29歳で亡くなる1953年までに、トップ10入りしたシングル35枚を録音した。

生涯
1953年没
死亡地
アメリカ合衆国(ウェストバージニア州 / オーク・ヒル)
出生地
アメリカ合衆国(Mount Olive)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ウェストバージニア州)

伝記

ハンク・ウィリアムズ、本名ハイラム・キング・ウィリアムズは、1923年9月17日にアラバマ州マウント・オリーブで生まれた。父イロンゾは材木会社の鉄道部門で機関士を務め、母リリーとのあいだの3人目で最後の子だった。ハイラムという名は旧約聖書の人物にちなんだが、出生証明書には綴りの誤りがあったという。彼は脊椎の形成不全による二分脊椎症の疑いがある状態で生まれ、その痛みに生涯苦しみ続けた。後年、酒や薬物に溺れた原因はこの痛みにあったとされる。1930年、7歳のとき、父が顔面麻痺を患い、脳動脈瘤と診断されて退役軍人の医療センターに送られ、8年にわたって入院した。残された母は下宿屋を営み、缶詰工場や病院の夜勤で働いて家計を支え、少年もピーナッツ売りや靴磨き、新聞配達で母を助けた。

アラバマ州ジョージアナに住んでいたとき、ルーファス・「ティー=トット」・ペインという黒人の路上演奏者に出会い、食事を提供する代わりにギターを習った。ペインの音楽の基にはブルースがあり、教わったコードやベース音の進行、伴奏の型は、後年の曲づくりに大いに活かされたという。ウィリアムズは後に、ペインは自分にとって唯一の教師だったと述べている。1937年に一家はモンゴメリーへ移り、中心部で下宿屋を開いた。このころ、そのほうがカントリー音楽らしいと考えて、名前を非公式にハンクと改めている。放課後や週末には地元のラジオ局のスタジオ前の歩道でギターを弾いて歌い、関心を得て、週給15ドルで週2回、15分の番組を任された。ザ・ドリフティング・カウボーイズというバンドを結成し、母をマネージャーに雇って、学校をやめて音楽に打ち込んだ。

1941年にアメリカが第二次世界大戦に参戦すると、バンドの仲間が徴兵されたが、二分脊椎症のために徴兵を免れたウィリアムズは代わりの団員探しに奔走した。体の痛みをしのごうと飲み始めた酒の問題が大きくなり、やがてラジオ局を解雇された。1943年にオードリー・シェパードと結婚し、彼女は舞台で歌うとともにマネージャーの役も務めた。小さなレコード会社から曲を出したのち、大手のMGMレコードと契約し、1948年に「ムーヴ・イット・オン・オーヴァー」で人気を集めた。同年、ラジオ番組『ルイジアナ・ヘイライド』に出演するようになり、1949年に「ラヴシック・ブルース」を発売して高い知名度を得た。最初は断られた『グランド・オール・オプリ』にも出演できた。楽譜の読み書きはほとんどできなかったが、1948年から1953年までに11曲をビルボードのカントリー&ウェスタン・チャートの1位に送り出した。ほかに「ユア・チーティン・ハート」「ヘイ・グッド・ルッキン」「アイム・ソー・ロンサム・アイ・クッド・クライ」などのヒット曲がある。

1952年までには、痛みを和らげるために服用していた酒やモルヒネ、鎮痛剤が公私にわたって問題を起こすようになった。酩酊をくり返し、そのために離婚し、『グランド・オール・オプリ』からも解雇された。1953年1月1日、会場へ向かう途中で医師にビタミンB12とモルヒネの混合液を注射させたが、すでにビールと抱水クロラールを飲んでいたため、致命的な心臓発作を起こして29歳で亡くなった。曲は多くの歌手に録音され、ボブ・ディランやジョニー・キャッシュ、レイ・チャールズらがカバーした。ロックの殿堂入りも果たし、カントリー音楽史で最も重要な人物のひとりと見なされている。

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