伝記
ジム・ソープは、1888年5月28日にインディアン準州(現オクラホマ州)に生まれ、陸上競技や野球、アメリカンフットボールなど幅広い競技で活躍した「元祖マルチアスリート」である。サック&フォックス族のインディアンであり、部族員としての名は「輝ける道」を意味するワ・サ・ハクという。生まれた居留地には出生証明が見つからず、生年月日や本名、民族的背景についての情報は幅がある。公式には、双子の弟とともに生まれ、カトリック教会で「ジェイコブ=フランシス・ソープ」と名づけられたとされる。両親はともに混血のカトリック教徒だった。
弟とともにサック&フォックス族の学校に通ったが、9歳の時に弟が肺炎で死亡し、その後は何度か学校を逃げ出した。父は彼をカンザス州のハスケルインディアン大学に送り、2年後に母が出産の際の合併症で亡くなると、失意の彼は父と言い争って家を出て、馬牧場で働いた。1904年に父に連れ戻され、ペンシルベニア州のカーライルインディアン工業学校に通うことになり、ここで運動能力が見出されて、名指導者ポップ・ワーナーの指導を受けた。しかし同年に父が狩猟中の負傷から壊疽にかかって亡くなり、一時は学校を辞めて農場で働いたが、数年後に復学した。
1907年に陸上競技選手としての歩みを始め、普段着のまま走り高跳びで約175センチを跳んで見せたと伝えられる。フットボールでは、ワーナーが体を使う競技をさせることをためらうなか、自らディフェンスとの対戦を申し出て、縦横無尽に走り回った。1911年にはハーバード大学との試合で、4本のフィールドゴールと1タッチダウンでチームの全得点を挙げ、18対15の勝利に貢献した。翌シーズン、チームは全米大学選手権で優勝し、彼はディッキンソン大学との試合で120ヤードを走るタッチダウンを決めた。陸軍士官学校に27対6で勝った試合では、92ヤードのタッチダウンランが反則で取り消された直後に、97ヤードのタッチダウンランを決めている。このシーズンに彼と対戦した後の大統領アイゼンハワーは、1961年に「彼は生涯練習せず、私が見たいかなる他のフットボール選手よりも優れたプレーができた」と回想している。
1912年のストックホルムオリンピックでは、走幅跳、走高跳、五種競技、十種競技の4種目に出場した。五種競技は5種目中4種目で1位となる圧倒的な成績で優勝した。十種競技では世界新記録となる8,412.955ポイントで、2位に700ポイント近い差をつけて制した。表彰式でスウェーデン国王グスタフ5世は彼に「あなたは世界最高のアスリートだ」と声をかけたという。帰国後はニューヨークのブロードウェイでパレードをする栄誉に浴した。
ところが1913年1月、彼が過去にプロ野球でプレーしていたと新聞が報じた。1909年と1910年にマイナーリーグの試合に出場して報酬を受けていたのである。当時の大学生の多くは仮名を使っていたが、彼は使っていなかった。全米体育協会は彼のアマチュア資格を過去に遡って撤回し、国際オリンピック委員会も、その年の後半に、タイトルとメダルの剥奪を全会一致で決めた。彼は1953年3月28日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ジェームズ・フィンレイソン (1953年没)
- エーリヒ・メンデルゾーン (1953年没)
- Antonio Conte (1953年没)
- ヨーゼフ・フィッシャー (1953年没)
- ジャック・ティボー (1953年没)