伝記
ロバート・アンドリューズ・ミリカンは、1868年3月22日に生まれたアメリカ合衆国の物理学者である。アイオワ州マコーキタの高校を出てオベリン大学に進み、1891年に西洋古典学の学士号を得た。2学年を終えた頃、ギリシア語の教授から、ギリシア語に優れた者なら誰でも物理学を教えられるといわれて物理学の講師を頼まれた。それまで物理学とは縁がなかったが、夏休み中に勉強して講師を務めるようになり、これが物理学を志すきっかけになった。のちコロンビア大学に入学し、1895年に物理学の博士号を取得した。同大学で物理学の博士号を得たのは、ミリカンが最初だったという。講師として物理学に関わったことから熱心な教育者となり、入門的な教科書を数多く書いた。単なる計算問題ではなく概念を問う練習問題を多く載せるなど、時代に先行した教科書で、大衆的な人気を得た。1902年に結婚し、3人の息子をもうけた。
1909年、教授を務めていたシカゴ大学で、電子ひとつの電荷量である電気素量を測る油滴実験を始めた。精度を高めるため、蒸発の少ない油滴を使うという重要な着想は、当時大学院生だったハーヴェイ・フレッチャーのものだったが、ミリカンは論文を単独名で発表し、代わりにフレッチャーの学位論文はフレッチャーの単独署名とされた。フレッチャーは亡くなるまでその密約を守ったという。1910年に最初の結果を公表したが、矛盾する測定結果を発表する研究者が現れて論争になり、装置を改良して1913年にさらに正確な結果を公表した。帯電した油滴を二つの小さな電極のあいだで重力に逆らって浮かせ、力を測るこの実験を多数の油滴で繰り返し、電荷が常に一定の値の整数倍になること、つまり量子化された量であることを実地に示した。電荷は連続量だと信じていたゼネラル・エレクトリック社のスタインメッツも、ミリカンの装置を使って結果の正しさを確信したという。
アインシュタインが1905年に光の粒子性の論文を発表したとき、ミリカンは波動説の蓄積のためにその論文は正しく評価されないと考え、10年に及ぶ検証実験を始めた。結果はアインシュタインの予測をあらゆる面で裏づけたが、ミリカン自身は理論の正しさに確信を持てず、1916年には、その光電方程式は「今のところ満足できる理論的基礎を持たない」と記した。一方で1958年の著書では、実験結果はアインシュタインの光の粒子論以外の解釈を許さないと明言している。光電効果の実験から、光電子のエネルギーと光の波長を用いてプランク定数も求めた。1923年、電気素量の測定と光電効果の研究によりノーベル物理学賞を受けた。
1917年、天文学者ジョージ・ヘールに説得され、のちにカリフォルニア工科大学となる学校で年に数か月を過ごすようになり、シカゴ大学を辞めて同大学の執行委員会委員長(事実上の学長)に就任し、1921年から1945年までその職を務めた。ここでの研究は主に宇宙線で、宇宙線という語はミリカンが作ったとされる。1930年代、コンプトンが宇宙線は荷電粒子だとしたのに対し、ミリカンは高エネルギーの光子だと考えたが、宇宙線が地球の磁場で曲げられることが判明し、コンプトンが正しいと証明された。第一次世界大戦中には国家研究協議会の副会長として、対潜水艦用や気象関係の装置の開発にかかわった。晩年はキリスト教信仰と科学の関係に関心を持ち、優生学を信じて人類改良財団に参加したことでも知られる。1953年12月19日、カリフォルニア州サンマリノの自宅で心筋梗塞により没し、グレンデールのフォレストローン墓地に埋葬された。
同じ年に亡くなった人物
- ヨセフ・テルンストレーム (1953年没)
- ニコライ・ゴロワノフ (1953年没)
- 小泉源一 (1953年没)
- ヴィリウス・ストーロスタス・ヴィドゥーナス (1953年没)
- 秩父宮雍仁親王 (1953年没)
同じ地域に関係する人物
- マーシャ・ハント (女優) (2022年没)
- アイラ・ガーシュウィン (1983年没)
- アーヴィング・カプランスキー (2006年没)
- フランシス・ドレイク (2000年没)
- ペギー・クヌードセン (1980年没)