伝記
ゲルト・フォン・ルントシュテットは、1875年12月12日にプロイセン王国ザクセン県のアッシャースレーベンで、軽騎兵将校ゲルト・フォン・ルントシュテット少将の息子として生まれたドイツの陸軍軍人である。記録によれば、一族は12世紀初めにはハルバーシュタット司教に仕える宮内長官だったとされ、のちにブランデンブルク辺境伯領へ移ってユンカーとなった。多くの軍人を出した名門の家柄である。ギムナジウムで学んだのち、1890年4月にベルリン・リヒターフェルデのプロイセン陸軍士官学校に入り、1892年に士官候補生としてカッセルの第83歩兵連隊に入営した。1893年に少尉に任官し、1901年には清国への遠征軍に従軍して義和団の乱の鎮圧にあたった。1902年にプロイセン陸軍大学に入学し、半分以上が落第するという最難関の参謀課程を修了している。同じ年に少佐の娘と結婚した。
1907年からプロイセン参謀本部に配属された。第一次世界大戦では第22予備歩兵師団の参謀将校として西部戦線に従軍したが、病を患って1914年12月に占領地ベルギーの軍政本部に移った。さらにオスマン帝国に軍事顧問として派遣され、中近東でのイギリス軍との戦闘に作戦参謀として加わった。親独国でありながら後進国と見られがちだったトルコの人々に偏見を持たず、国情や地形に合った戦略指導を行ったとされる。その後は東部戦線の師団参謀長や、ハンガリーでのカルパチア山脈の防衛戦などを経て、1918年3月に西部戦線の軍団参謀長となった。二度プール・ル・メリット勲章の推薦を受けたが、受章はできなかった。オスマンでの働きをゼークト大将に評価され、1918年12月に参謀本部へ呼び戻された。終戦時の階級は少佐だった。
戦後は兵力10万人に制限されたヴァイマル共和国の陸軍に残り、カップ一揆や政治色の強い義勇軍には反対した。1920年に中佐、1923年に大佐、1927年に少将、1929年に中将と昇進を重ねた。1932年にはベルリンの第3師団長と第3軍管区司令官となり、同年7月のプロイセン・クーデターでは軍管区内の執行権を委任され、プロイセン州政府の庁舎を無血で制圧した。ナチ党政権下でも1938年まで第1集団司令部司令官を務め、陸軍の中枢にあり続けた。ナチスの思想に完全に共鳴したわけではないが軍拡路線には共感し、機甲戦術の理論を唱えたグデーリアンにも理解を示して、装甲師団の創設を後押しした。1938年のブロンベルク・フリッチュ事件では、冤罪で陸軍総司令官の座を追われたフリッチュのためにヒトラーへ抗議した。同年10月に退役を命じられたが、1939年5月に現役へ復帰した。
ポーランド侵攻では南方軍集団司令官を務め、参謀長マンシュタインの的確な状況判断もあって第8軍への反撃を退け、9月30日に騎士鉄十字章を受けた。1939年10月にはA軍集団司令官となり、対フランス戦でアルデンヌの森を突破する作戦を担った。ダンケルクへの進撃停止命令には賛同したため、連合軍の撤退を許したと指摘される。1940年7月19日、勝利の功によりヒトラーから元帥に任じられた。バルバロッサ作戦では南方軍集団司令官を務め、9月にキエフを陥落させたが、12月にヒトラーの後退禁止命令に反してロストフから後退したため罷免された。1942年3月に西方総軍司令官に復帰し、1944年6月のノルマンディー上陸後に早期講和を求めたため、7月2日に再び罷免された。1953年2月24日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- エドマンド・デュラック (1953年没)
- フローレンス・プライス (1953年没)
- Prince Oscar Bernadotte (1953年没)
- グッチオ・グッチ (1953年没)
- Sophia Hayden Bennett (1953年没)
同じ地域に関係する人物
- パウル・ハインリヒ・ゲルハルト・メーリンク (1792年没)
- ヴィルヘルム・ラーベ (1910年没)
- フリードリヒ2世 (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公) (1478年没)
- グスタフ・フォン・シュモラー (1917年没)
- エルザ・レントシュミット (1969年没)