伝記
カルロス2世は、1332年10月10日に生まれたナバラ王で、エヴルー伯でもある。「邪悪王」「悪人王」と呼ばれた。父はナバラ王フェリペ3世(エヴルー伯フィリップ・デヴルー)、母はフランス王ルイ10世の娘のナバラ女王フアナ2世である。父からはエヴルー伯領を、母からはピレネー山麓のナバラ王国のほか、コタンタン半島の一部、モルタン伯領、ヴェクサンなどを受け継いだ。ルイ10世の女系の孫であるカルロス2世は、フランス王位をとり戻すことを長いあいだ願い続けた。幼いころはフランス宮廷で育てられた。1349年、母の死でナバラ王となった。
1352年、フランス王ジャン2世の娘ジャンヌと結婚したが、フランス王位への野心はしだいに表に出た。1354年1月8日、ジャン2世の寵臣で、アングレーム伯領を与えられたシャルル・ド・ラ・セルダが、レーグルで暗殺された。カルロス2世が弟フィリップに指示したとされる。ジャン2世はエヴルーとナバラに攻め込んだが、カルロス2世がイングランド王エドワード3世に近づくと、提携を恐れてマント条約を結び、暗殺を不問にし、コタンタン半島などを与えた。1356年4月5日、約束の不履行からイングランドと結び、王太子シャルル(のちのシャルル5世)とも接触したことでジャン2世の怒りを買い、カルロス2世は捕らえられてアルル城に幽閉された。
1356年9月19日のポワティエの戦いでジャン2世がイングランドの捕虜になると、カルロス2世は1357年11月9日、パリ商人頭エティエンヌ・マルセルら支持者によって釈放された。1358年にはマルセルの手引きでパリ城代となったが、配下の軍が略奪を働いて市民の怒りを買い、逃れた。マルセルが殺され、パリは王太子に押さえられた。1359年8月21日、ポントワーズ条約を結んで、イングランドと手を切らざるをえなかった。1361年にブルゴーニュ公フィリップ1世が若くして亡くなると、長系の相続者として公位を要求したが、より血統の近いジャン2世が得た。1364年にあらためて訴えたものの、5月16日にコシュレルの戦いで傭兵隊長ベルトラン・デュ・ゲクランに敗れた。1365年のサン=ドニ条約でフランス王位の請求権を放棄し、同年3月にはアヴィニョンの条約でブルゴーニュ公位も放棄した。マントとロングヴィル伯領を手放すかわりに、シャルル5世からモンペリエの町と領主権を与えられた。
1366年には第一次カスティーリャ継承戦争でイングランドのエドワード黒太子、カスティーリャ王ペドロ1世とリブルヌで同盟し、ナバラ国内のイングランド軍の通行を認めた。1367年のナヘラの戦いで黒太子はエンリケ2世に勝ったが、1369年にペドロ1世がモンティエルの戦いで討たれ、すべて無駄になった。1371年にいったんシャルル5世と和睦したものの、1378年にシャルル5世とエンリケ2世の暗殺をはかって、イングランドと密約を結んだことが発覚した。息子のカルロス(のちのカルロス3世)はフランスに拘留され、ノルマンディーの領土はゲクランに奪われ、モンペリエも没収された。1379年にはカスティーリャにナバラを占領され、3月のブリオレス条約で両国と対イングランド同盟を結んだ。こうしてフランス王位を最終的にあきらめた。
1387年1月1日、カルロス2世は事故で焼死した。同時代の年代記作家ジャン・フロワサールによれば、医師の指示で蒸留酒をしみ込ませたリネンのシーツが体にきつく巻きつけられていたが、これが事故で燃え上がり、王は火傷がもとで死んだ。フロワサールはこれを神の審判と評した。
同じ年に亡くなった人物
- ピエール・ド・リュクサンブール (枢機卿) (1387年没)
- サヤナ (1387年没)
- オーロフ2世 (デンマーク王) (1387年没)
- チャンダルル・カラ・ハリル・ハイレッディン・パシャ (1387年)
- Joanna, Duchess of Durazzo (1387年)
同じ地域に関係する人物
- レオノール・デ・トラスタマラ (1416年没)
- サンチャ・デ・カスティーリャ (ナバラ王妃) (1179年没)
- ビオランテ・デ・アラゴン (1301年没)
- Al-Mustain II (1110年没)
- エンリケ1世 (ナバラ王) (1274年没)