HISTORICAL PERSON · 1954年没

ジガ・ヴェルトフ

ソ連の記録映画の先駆者。ニュース映画『キノ・プラウダ』で頭角を現し、多重露光などを駆使した『カメラを持った男』を撮った。

生涯
1954年没
死亡地
ロシア連邦(モスクワ)
出生地
ポーランド共和国(ビャウィストク)
出典
世界地図
ロシア連邦(モスクワ)

伝記

ジガ・ヴェルトフは、1896年1月2日(グレゴリオ暦では1月15日)に生まれたソビエト連邦の映画監督である。本名はデニス・アルカジェヴィチ・カウフマンといい、生まれたときの名はダヴィド・アベレヴィチ・カウフマンだった。ユダヤ人の家庭の三人兄弟の長男として、当時ロシア領だったポーランドのビアリストクに生まれ、ユダヤ風の名と父称を、1918年より後のどこかの時点でロシア風に改めたとされる。ジガ・ヴェルトフはペンネームで、「コマのように回転する人形」を意味するといわれ、ウクライナ語で「回転するコマ」と訳されるともされる。弟のボリス・カウフマンはジャン・ヴィゴ監督の作品やエリア・カザン監督の『波止場』などの撮影を担当し、もう一人の弟ミハイル・カウフマンも撮影技師として兄の作品を支えた。

ヴェルトフはビアリストクの音楽院で音楽を学んだが、1915年にドイツ軍の侵攻から逃れて一家でモスクワに移り、まもなくペトログラードに落ち着いた。ここで詩やSF、風刺文を書きはじめ、1916年から翌年にかけては精神神経学研究所で医学を学びつつ、暇を見つけては「音のコラージュ」の実験をしていた。若いころの文章は、個人と、のちに「第二の目」と呼んだカメラのレンズの知覚との関係を扱うものが多かったが、未発表のものが大半で、第二次世界大戦後まで残った原稿はわずかだという。1917年の十月革命の後、22歳で、モスクワ映画委員会の週刊ニュース映画『キノ・ネデリャ』の編集に携わった。ロシア初のニュース映画シリーズで、1918年6月に始まり、ここで後に妻となる映画監督で編集者のエリザヴェータ・スヴィロワと出会った。彼女は編集者から助手、共同監督へと関わりを深めていく。

ヴェルトフは3年間この仕事に従事し、内戦のさなかには、撮影・現像・編集・映写の設備を備えた映画車両を煽動列車に設けて、戦線へ赴いた。1919年に記録映画『革命記念日』をまとめ、1922年にはスヴィロワ、弟のミハイルとともに、機関誌に宣言を発表する「三人評議会」を結成した。同年、政府の機関紙の名を題にとったニュース映画シリーズ『キノ・プラウダ』を始めた。市場や酒場、学校など日常を、ときには許可を取らず隠しカメラで撮り、断片を組み合わせることで、肉眼では見えないより深い真実を示すという「映画の真実」の考えを、数々の評論で説いた。この時期にはマヤコフスキーらロシア・アヴァンギャルドの芸術家とも親交を結んだ。

いくつかの長編記録映画を撮ったのち、自らの映画論の集大成ともいえる『カメラを持った男』(1929年)を監督した。多重露光、ストップモーション、スローモーション、早回し、移動撮影といった当時最先端の技法を多用した先鋭的な作品で、日本では1932年に『これがロシヤだ』の題で劇場公開された。この作品でヴェルトフの名は西欧にも知られたが、ソビエト政府からは形式主義的と批判されて映画製作の機会を奪われ、晩年はスターリンによる反ユダヤ政策の影響もあり、ニュース映画の編集に従事させられた。1930年に『ドンバス交響曲』、1934年に『レーニンの三つの歌』を発表している。1954年2月12日、モスクワで満58歳で死去した。没後の1968年、ゴダールらが結成した映画製作グループは、その名にちなんで「ジガ・ヴェルトフ集団」と名乗った。

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