伝記
ライオネル・バリモアは、1878年4月28日にフィラデルフィアで生まれたアメリカ合衆国の舞台俳優、映画俳優である。生まれた時の名はライオネル・ハーバート・ブライスといい、父はイングランド出身の俳優モーリス・バリモア、母は米国の女優ジョージアナ・ドリューで、その長男にあたる。妹エセル・バリモアと弟ジョン・バリモアもともに高名な俳優で、芸能一家に育ったため、少年時代から舞台に立っていた。私立の学校に通い、美術学校アート・スチューデンツ・リーグにも学んだ。1891年にはカトリック系の進学校セトン・ホール準備学校を卒業している。
ただ、本人は両親と同じ道を歩むことに乗り気ではなかった。15歳だった1893年には祖母のルイーザ・レーン・ドリューと巡業し、舞台『恋敵』にも出たが、のちに「演じたくはなかった。絵を描きたかった。演劇は私の血の中にはなく、結婚によって縁続きになっただけの、付き合うほかない親戚のようなものだった」と語っている。それでも性格俳優として早くから成功し、20代前半にはブロードウェイで叔父のジョン・ドリューと共演した。1906年には、舞台の不調が続いたため最初の妻である女優ドリス・ランキンとパリへ渡り、画家の修業をしたが、成功せず1909年に帰国した。翌年にはブロードウェイに戻り、家族一座の寄席芸にも加わっている。
1909年にバイオグラフ社に入って映画に関わり、1911年からはD・W・グリフィス監督の下で数本の映画の脚本を書き、端役を演じたが、バリモア自身にはあまり満足できる結果にならなかった。1912年から1917年にかけては舞台を離れて映画に取り組んだのち、1917年には弟ジョンと共演した『ピーター・イベットソン』で舞台に戻り、花形スターとなった。第一次世界大戦後はブロードウェイで劇的な性格俳優としての評価を確立した。1923年の『笑え、道化師、笑え』が舞台での最後の成功となり、共演した女優アイリーン・フェンウィックとは前年の舞台で知り合って、最初の妻と離婚して再婚した。1925年には3作続けて酷評を受けた。その後、映画界へ誘われてMGMと異例の25年契約を結び、契約には映画監督を許可する条項も含まれていた。トーキーの時代に入った1927年以降は、二度と舞台に立つことはなかった。
監督としては『マダムX』(1929年)でアカデミー監督賞にノミネートされたものの、あまり結果を出せず、1931年に契約を変えて演技に専念した。『自由の魂』(1931年)では、大酒飲みで常識にとらわれない刑事弁護士を演じて、アカデミー男優賞を得た。この作品に出る前の彼は、役者より監督に魅力を感じていたらしく、この受賞でMGMとの契約を書き換えたと言われる。1930年代初期のMGM作品では、センチメンタルで気難しい祖父役やけちな大金持ちを演じて、ファンに愛された。悪役、軍隊の将官、父親など、年上の役が似合う俳優でもあった。
のちには『キルデア博士』のシリーズで医師ギレスピーを演じ、フランク・キャプラ監督の1946年の作品では悪役のポッター氏を演じて、今日の観客にも知られている。晩年の約20年間は、毎年ラジオで放送された『クリスマス・キャロル』のスクルージ役でも記憶されている。1938年以来、関節炎と2度の転倒により車椅子の生活を余儀なくされたが、映画出演は1953年まで続いた。晩年はテレビでの活動を拒み、ラジオの出演のみで余生を送った。1954年11月15日に死去した。
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