伝記
エンリコ・フェルミは、1901年9月29日にローマで生まれたイタリアの物理学者である。父アルベルトは公務員、母イダ・デガティスは教師で、フェルミは3番目の子だった。2歳年上の姉マリアと1歳年上の兄ジュリオがおり、幼い頃は田舎に預けられて、2歳半の時に家族のもとへ戻った。家系はローマ・カトリックで、祖父母の希望で洗礼を受けたが、特に信心深いわけではなく、のちに不可知論の立場をとった。1915年に兄ジュリオが喉の膿瘍で急死すると、深く落ち込み、科学の勉強に逃れたという。少年の頃から物理や数学を好み、父の友人の技師アドルフォ・アミデイから借りた書物を急速に吸収した。
1918年、トスカーナの古都ピサの高等師範学校とピサ大学に入り、物理学を学んだ。入学試験の作文では弦の波動を扱うフーリエ変換を導いて、試験官を驚かせたとされる。非凡な才能を発揮してすぐに教師を追い越し、相対性理論について教えを請われたこともあった。ここで同い年で物理学専攻のフランコ・ラゼッティと知り合い、親友となった。1922年に学位を取得すると、ドイツのゲッティンゲン大学に留学し、ローマ大学で講師として1年間教えたのち、オランダのライデン大学へ再び留学し、1925年にはフィレンツェ大学の臨時講師となった。1926年に発表した電子の振る舞いにパウリの排他原理を導入した新しい統計力学の理論、いわゆるフェルミ統計で世界的な名声を得た。同時期にポール・ディラックも同様の結論に至っていたため、フェルミ=ディラック統計とも呼ばれる。
1926年、物理学者のオルソ・コルビーノがローマ大学に理論物理学の教授職を新設し、フェルミは20代半ばで教授に就任した。親友のラゼッティと研究チームを作り、エドアルド・アマルディやエミリオ・セグレ、エットーレ・マヨラナ、ブルーノ・ポンテコルヴォらが加わった。この若い一団は「パニスペルナ通りの少年たち」と呼ばれ、世界でも第一級の研究チームとなった。1928年にはラウラ・カポーネと結婚している。ニュートリノの存在を導入したベータ崩壊の理論を完成させ、自然に存在する元素に中性子を照射して40種類以上の人工放射性同位元素を作り、熱中性子を発見してその性質を明らかにした。これらの成果で、1938年にノーベル物理学賞を受けた。
しかしイタリアはムッソリーニのファシスト政権下にあり、妻ラウラがユダヤ人であったため、ユダヤ人排撃が強まるなかで、アメリカの大学からの招聘を得て国外移住を決意した。ノーベル賞の授賞式のために出国し、ストックホルムで賞を受け取ると、そのままアメリカへ移った。1939年にコロンビア大学の物理学教授となり、移住の直後に、ドイツでオットー・ハーンが核分裂の実験に成功したと知った。1942年にはシカゴ大学で世界最初の原子炉「シカゴ・パイル1号」を完成させ、核分裂の連鎖反応の制御に史上初めて成功した。この原子炉は、原子爆弾の材料となるプルトニウムの生産を実証するためのものだった。その後もマンハッタン計画の中心で働き、シカゴ、オークリッジ、ハンフォードの原子炉建設に関わり、1944年にはロスアラモス国立研究所の副所長となった。
のちの水素爆弾の開発には倫理的な観点から反対している。第二次世界大戦後はシカゴ大学で宇宙線の研究を行った。1954年11月28日、癌により死去し、死の床でも点滴のしずくが落ちる間隔から流速を算出していたという。元素名のフェルミウムや長さの単位フェルミ、フェルミ推定、フェルミのパラドックスなど、多くの用語にその名が残る。
同じ年に亡くなった人物
- 尾崎行雄 (1954年没)
- カール・エドゥアルト (ザクセン=コーブルク=ゴータ公) (1954年没)
- ロバート・ジャクソン (法律家) (1954年没)
- エドウィン・アームストロング (1954年没)
- アンドレ・ドラン (1954年没)
同じ地域に関係する人物
- Frederick Suerig (1929年没)
- フランク・ナイト (1972年没)
- アルジス・バドリス (2008年没)
- リンダ・ダーネル (1965年没)
- ジョージ・ピーター・アレキサンダー・ヒーリー (1894年没)