伝記
ナーシルッディーン・ムハンマド・シャーは、北インドを支配したトゥグルク朝の第6代の君主で、デリーのスルタンとして1390年から1394年まで在位した。父は第3代君主のフィールーズ・シャー・トゥグルクである。1352年6月17日、父が即位した翌年に、フィールーズ・シャーの末の息子として生まれたとされる。
父の晩年の1384年、父が病に倒れると、ムハンマドは父の宰相ハーニ・ジャハーン2世と権力を争った。宰相の懸念にもかかわらず、フィールーズ・シャーはムハンマドに王の権限を与えて引退した。1387年、ムハンマドは宰相を殺害したが、まもなく放蕩に走り、広い不満を招いて地位を追われた。そこで78歳の父が、後宮から輿に乗せられて連れ出され、再びスルタンと宣言された。このときフィールーズ・シャーは、曾孫のトゥグルク・ハーンを後継者と定め、ムハンマドはデリーからサマーナーへ逃れた。1388年9月にフィールーズ・シャーが死去すると、トゥグルク・ハーンはギヤースッディーン・トゥグルク2世として即位したが、これは新たな内乱を招いた。1389年にギヤースッディーンが暗殺され、ムハンマドの甥で、フィールーズ・シャーの孫のアブー・バクル・シャーが王位に就いた。
ムハンマドは、叔父としてアブー・バクルに反対し、サマーナーで自らスルタンを称して王位をめぐって争った。ムハンマドは軍の司令官とその部隊の支持を得て、地方の大部分を制圧した。一方、アブー・バクルは、祖父のフィールーズ・シャーの奴隷たちの支持を受け、戦象も支配下に置いていた。1389年9月、ムハンマドは部下に、父の奴隷を見つけしだい皆殺しにせよと命じた。1390年8月にデリーへ攻撃をかけ、アブー・バクルを支持していた奴隷が二派に分かれると、一方がムハンマドをデリーに招いた。アブー・バクルはデリーから逃げ、ムハンマドが入城してナーシルッディーン・ムハンマド・シャーとして王座に就いた。アブー・バクルは捕らえられ、メーラトの砦に幽閉されて、まもなくそこで死んだ。
ムハンマド・シャーは、在位中、たえず反乱に直面した。エータワーでは、ヒンドゥー教徒の首長ウッダーランとスメールが反乱を起こし、スルタンは1391年に自ら出陣して町を更地にした。ジャレーサル近くには砦を築き、ムハンマダーバードと名づけた。長男で皇太子のフマーユーン・ハーンは、反乱の鎮圧を助けた。ムハンマド・シャーは、懲罰の遠征の準備をしているさなかの1394年に亡くなった。没日は1月20日とされ、病によるともいわれる。跡はアラーウッディーン・シカンダル・シャーが継いだが、同じ年にシカンダル・シャーも亡くなり、まもなく宮廷は二派に分かれ、それぞれが傀儡を立てて争いを始めた。
同じ年に亡くなった人物
- イブン・ラジャブ (1394年(推定))
- コンスタンス・オブ・カスティル (1394年没)
- アドルフ3世 (マルク伯) (1394年没)
- Fazlallah Astarabadi (1394年)
- Nerio I Acciaioli (1394年)
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