伝記
ジョン・ホークウッドは、14世紀イタリアで活躍したイングランド出身の傭兵隊長である。1320年に生まれ、百年戦争でイングランド軍に従軍した後に傭兵となり、イタリアに渡った。その後30年以上、都市国家が乱立するイタリアで、教皇をはじめ多くの勢力に仕えた。イタリアではジョヴァンニ・アクートと呼ばれる。若いころの経歴ははっきりしない。もっとも受け入れられている説では、エセックスのサイブル・ヘディングハムの革なめし職人の次男で、のちにロンドンに奉公に出されたという。兵士になる前は仕立て屋だったとする説もある。
百年戦争の初期にはイングランド側で戦ったとされる。伝承ではクレシーの戦いとポワティエの戦いのどちらか、あるいは両方に加わったというが、明確な証拠はない。エドワード黒太子から騎士に叙せられたという伝承にも記録がない。彼の軍歴は、1360年にブレティニー仮和平条約が結ばれて休戦に入ったために終わった。その後はフランスのブルゴーニュで小さな傭兵団に入り、アヴィニョン近郊で教皇勢力と戦う傭兵集団の一部となった。1360年代の初めごろ、ドイツ人傭兵隊長アルベルト・ステルツに代わって白衣団の指揮官になったとされる。1363年にはモンフェッラート侯の傭兵集団に加わり、ミラノのヴィスコンティ家との戦いで指揮を取り、そのままイタリアにとどまった。
1364年にはピサの側についてフィレンツェと戦い、1369年にはペルージャについて教皇勢力と戦った。1370年にはミラノの僭主ベルナボ・ヴィスコンティの陣営に入り、1372年にもヴィスコンティ家について、以前の雇い主のモンフェッラート侯と戦った。白衣団は高い評判を得、彼は「鋭い者」を意味するレ・アクートと呼ばれるようになった。都市国家は常備軍の代わりに傭兵を雇っており、彼は雇い主の敵につくことも多く、報酬を保つために勢力を変えた可能性もある。1375年には、八聖人戦争で教皇側についた彼を、フィレンツェが抱き込み、3か月間攻撃しない契約を取りつけた。得た富で、ロマーニャの土地とトスカーナのモンテッキオ・ヴェスポーニ城を買った。
1377年、教皇グレゴリウス11世の名のもとにチェゼーナで数千人規模の虐殺を行った。市民の助命を約束したが、ジュネーヴのロベール枢機卿が全員の殺害を指示したとも伝わる。その直後、反教皇派のミラノに移り、ベルナボ・ヴィスコンティの庶出の娘ドンニーナと結婚して、男子1人と女子3人をもうけた。しかしヴィスコンティ家との関係はすぐに壊れ、フィレンツェについた。1381年にはイングランド王リチャード2世から教皇庁の大使に任命された。1387年には、パドヴァを支援するヴェローナ軍を指揮して勝利した(カスタニャーロの戦い)。1390年にはフィレンツェの総司令官となり、ミラノのジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティと戦って、ミラノまで16キロのところまで迫ったが、アディジェ川まで撤退した。ガレアッツォはフィレンツェと講和し、攻略は頓挫した。
この功績で、ホークウッドはフィレンツェの市民権と恩給を得た。すでに70歳を超えており、郊外で余生を過ごした。1394年3月16日(17日とも)に亡くなり、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂で国葬が行われた。リチャード2世が遺骸の返還を求め、遺体はイングランドに送られたといわれる。1436年にはフィレンツェがパオロ・ウッチェロに命じてフレスコ画を描かせた。死後は、フィレンツェなどを敵から守った騎士という評価と、虐殺を働いた殺戮者という評価の2つを得た。
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