HISTORICAL PERSON · 1955年没

アルベルト・アスカリ

イタリア・ミラノ出身のレーシングドライバー。1952年と1953年にF1世界王者となった。愛称は「フライング・ミラン」。

生涯
1955年没
死亡地
イタリア共和国(モンツァ・エ・ブリアンツァ県 / モンツァ)
出生地
イタリア共和国(ミラノ)
出典
世界地図
イタリア共和国(モンツァ・エ・ブリアンツァ県)

伝記

アルベルト・アスカリは、1918年7月13日にイタリアのミラノで生まれたレーシングドライバーで、1952年と1953年のF1ワールドチャンピオンである。出身地にちなんで「空飛ぶミラノ人」、また「チッチョ(太っちょ)」と呼ばれた。父アントニオ・アスカリは1920年代にアルファロメオで活躍した名ドライバーで、幼い頃のアルベルトは、父にレーシングカーの横に乗せてもらってモンツァ・サーキットを走ったことが忘れられない思い出になったという。しかし父は、彼の7歳の誕生日の約2週間前にあたる1925年、フランスグランプリで首位を走行中の事故で亡くなった。それでもレースへの情熱は変わらず、レーサーになりたい一心で学校を二度抜け出し、教科書を売ってレース資金にしたと伝えられる。1929年に11歳で二輪の草レースに優勝し、その後しばらくは二輪レースに打ち込んだ。

1940年には、父の親友エンツォ・フェラーリが用意したアウト・アヴィオ・コストルツィオーニの815でミッレミリアに出場し、四輪レーサーとしての経歴が始まった。同年に結婚したが、第二次世界大戦の勃発で活動は中断した。戦時中はイタリア軍関連の輸送業を営み、ルイジ・ヴィッロレージと組んで北アフリカの軍の補給所へ燃料を運ぶ事業で成功を収めた。ヴィッロレージとは師弟関係を築き、以後二人はチームメイトとして行動を共にした。戦後の1947年に再び表舞台に立ち、マセラティで走って、1948年のサンレモグランプリで初優勝を飾った。1949年にスクーデリア・フェラーリへ加入すると、スイスグランプリでフェラーリの国際グランプリ初優勝を達成し、モンツァのヨーロッパグランプリも制して、イタリアを代表するドライバーと認められた。

1950年にF1世界選手権が始まると、第2戦モナコから出走して初戦で2位に入り、ランキング5位となった。1951年は第6戦ドイツグランプリで初のポールポジションを獲得して初優勝をポールトゥーウィンで飾り、2勝を挙げてファン・マヌエル・ファンジオに次ぐ2位となった。1952年は参戦7戦中6戦で優勝し、フェラーリのドライバーとして初のF1チャンピオンとなった。1953年も8戦中5勝で連覇し、シリーズ初の連覇を達成している。この1952年から1953年にかけての9戦連続優勝は、のちにベッテルに並ばれ、フェルスタッペンが10連勝するまでF1史上最多だった。1954年はランチアと契約したが、マシンの開発が遅れ、自チームで走れたのは最終戦のみで、年間ランキングは24位に終わった。ただしこの年のミッレミリアでは優勝している。

1955年のモナコグランプリでは、シケインでクラッシュしてマシンごと海に落ちたが、潜水夫に救助され、鼻の骨を折っただけで生還した。ところが4日後、彼はモンツァでのスポーツカーのテストに現れ、回復具合を確かめるため急遽ドライブを志願した。黒猫が前を横切れば道を変えるほど信心深く、常に青いシャツと青いヘルメットで走ったが、この日はヘルメットがなく、キャステロッティのものを借りて走った。2周目に突然急ブレーキを踏んでコースオフし、マシンは土手に乗り上げて宙を舞い、投げ出された彼は搬送中の救急車で亡くなった。37歳、絶頂期だった。急ブレーキの理由は今も分かっていない。父も同じ26日に36歳で事故死しており、「アスカリ家の悲劇」と語られる。事故現場は「アスカリ・シケイン」と呼ばれ、彼を最後にイタリア人のF1チャンピオンは出ていない。

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