伝記
コーデル・ハルは、1871年10月2日、テネシー州の山あいにあるオリンパス(現在のピケット郡)の丸太小屋で生まれたアメリカ合衆国の政治家である。父ウィリアムと母メアリーの五人兄弟の三男にあたる。ハルは回顧録で、南北戦争のころから一家は厳格な民主党員だったと述べている。ジェファーソンの思想に深く傾倒し、独立宣言や就任演説、権利章典の長い一節を暗記したといい、生涯、自らを「ジェファーソン流の民主党員」と規定した。十九世紀の田舎では暴力が日常で、法が弱く、力が物を言う世界だったため、人は利己的なものだから、秩序を保つには法を厳格に適用するほかないと考えるようになったと、のちの伝記では説明されている。
十六歳で初めての演説をし、1889年から翌年までオハイオ州レバノンの師範大学で学んだ。1890年にはテネシー民主党大会で代表を務め、十九歳でクレイ郡の民主党議長に選ばれている。1891年、カンバーランド大学の法律学校を卒業して弁護士となった。政治経歴は1893年のテネシー州議会に始まり、1897年まで州議員を務めた。米西戦争では、テネシー義勇歩兵第4連隊の大尉としてキューバへ赴いたが、戦闘にはならず、米兵を最も多く死なせたのはスペインの弾よりもマラリアだった。これが初めての外国滞在でもあった。1903年から1907年までは第5巡回裁判区の裁判官を務めた。
1907年に下院議員となり、のち十一期、二十二年にわたってこの職を務めた。民主党全国委員会の議長を務めた二年間だけ中断している。議員として低率関税への改訂に努め、1913年には最初の連邦所得税法案、1916年には連邦および州の相続税法を成立させた。1930年に上院議員に選ばれたが、1933年、フランクリン・ルーズヴェルト大統領から国務長官に任命された。貿易の促進と関税の引き下げを重んじ、その政策は1934年の互恵通商協定法の成立などに結びついた。ラテンアメリカに対する善隣政策の主要な立案者の一人ともされ、第二次世界大戦に至る時期のアメリカ外交の形成に大きく関わった。
国務長官としては、1941年11月、日本に対してハル・ノートを提示した。日本との交渉は決裂し、12月の真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まった。ハルは国際連合の発案者であり熱心な支持者でもあった。国務省に国連憲章の起草を強く求めた主要人物で、その作業は1943年の中ごろまでに実行に移された。1944年11月に健康上の理由で辞任したとき、ルーズヴェルトは、平和のためのこの大きな計画の達成に最も尽力した一人だと語った。在職は十一年九か月で、国務長官としては史上最も長い。共和党は国連加入に反対していたが、ハルの超党派的な献身が、加盟の際に共和党が協力した理由だとされる。1945年にノーベル平和賞を受賞し、「国連の父」と呼ばれるようになった。
ユダヤ系オーストリア人の未亡人ローズ・フランシス・ウィッツと結婚したが、子はいなかった。1955年7月23日、メリーランド州ベセスダの海軍病院で、心筋梗塞と脳梗塞のため亡くなった。テネシー州カルタゴ近郊のカンバーランド川には、彼の名を冠したコーデル・ハル・ダムがある。回顧録は日本でも『ハル回顧録』として刊行されている。
同じ年に亡くなった人物
- デール・カーネギー (1955年没)
- ウジェーヌ・デルポルト (1955年没)
- エドワード・カスナー (1955年没)
- マックス・ペヒシュタイン (1955年没)
- ホーナス・ワグナー (1955年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョン・ギボン (将軍) (1896年没)
- モンゴメリー・ブレア (1883年没)
- コードウェイナー・スミス (1966年没)
- ジョン・アイゼンハワー (2013年没)
- イヴリン・リアー (2012年没)