HISTORICAL PERSON · 1955年没

アレクサンダー・フレミング

スコットランドの細菌学者。抗菌物質リゾチームを発見し、アオカビから世界初の抗生物質ペニシリンを見出したことで知られる。

生涯
1955年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ロンドン)
出生地
イギリス連邦(Lochfield)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

アレクサンダー・フレミングは、1881年8月6日にスコットランドのエアシャー州ダーヴェル近郊にあるロッホフィールド農場で生まれ、1955年3月11日にロンドンで没した細菌学者である。抗菌物質リゾチームと、アオカビから見いだした世界初の抗生物質ペニシリンの発見者として知られる。スコットランドで発行される5ポンド紙幣には、その肖像が使われている。

農夫ヒュー・フレミングと、近隣の農家の娘グレース・スターリング・モートンの間の、四人の子の三番目に生まれた。父には先妻との間に四人の子がおり、後妻のグレースと結婚したとき59歳で、アレクサンダーが7歳のときに亡くなった。地元の学校に通ったのち、キルマーノックの学校で二年間学び、ロンドンに出て王立科学技術学院に入った。卒業後は商船会社で四年間働いていたが、叔父の遺産を受け取ったことと、医師だった兄トムの勧めとで、医学の道に進んだ。ロンドン大学のセント・メアリーズ病院医学校を1906年に優秀な成績で卒業し、同校の接種部でアルムロス・ライトの助手になった。射撃部で活躍していた彼を手放したくない部の主将が、研究部門へ入るよう勧めたことが、そのきっかけだったという。

1914年に召集されたフレミングは、第一次世界大戦の間ずっと陸軍医療部隊に勤め、多くの同僚とともにフランスの戦場病院で働いた。ブローニュの英国陸軍病院の細菌研究施設で研究にあたり、ガス壊疽のような感染症で兵士が死んでいくさまを目の当たりにした。傷口に使われた消毒薬がかえって症状を悪化させることがあると観察し、1917年に論文で実験を示した。ライトはこれを強く支持したが、軍医の多くは消毒薬を使い続けたという。戦後、セント・メアリーズ病院に戻ると、感染症の治療を改善する薬を探すことに情熱を傾けるようになった。

彼の実験室はいつも雑然としていたとされ、それが発見のきっかけになったと伝えられる。1921年の終わりごろ、細菌を塗った培地に自分の鼻水を加えたところ、その周囲で細菌の増殖が止まることを見つけた。これが、動物の唾液や卵白にも含まれる殺菌作用のある酵素、リゾチームの発見である。感染症を治す力はなかったが、現在では食品添加物や医薬品として使われる。1928年には、廃棄する前の培地を観察していて、黄色ブドウ球菌が一面に育った培地に混じり込んだカビの集落に気づいた。その周囲だけは透明になり、細菌の増殖が阻まれていた。アオカビを液体培地で培養し、ろ過した液に抗菌物質が含まれていることを確かめて、アオカビの属名にちなみ「ペニシリン」と名づけ、1929年に論文を発表した。

ただし、フレミング自身はペニシリンの精製に成功しなかった。精製は化学者の得意とする仕事で、最初の論文が当時の医学関係者に受け入れられなかったことも、研究の進展を妨げた。発見から十年あまりがたった1940年、論文を読んだ化学者ハワード・フローリーとエルンスト・ボリス・チェーンらのオックスフォードのグループが精製と製剤化に成功し、第二次世界大戦中には大量生産が可能となった。この「再発見」によりフレミングは1944年にナイトに叙せられ、1945年にフローリー、チェーンとともにノーベル生理学・医学賞を受けた。1951年からはエディンバラ大学の学長を務めた。後年には、色素をつくる細菌を絵の具の代わりに使って絵を描くこともあった。1955年に自宅で心臓発作のため亡くなり、ロンドンのセント・ポール大聖堂に葬られた。少年時代のチャーチルを溺れかけたところから救ったという話は、事実ではないとされる。

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