HISTORICAL PERSON · 1955年没

ジョン・モット

ワイエムシーエーの指導者で、エディンバラ宣教会議の議長を務めた。20世紀で最も影響力のある宗教家の一人とされ、1946年にノーベル平和賞を受賞した。

生涯
1955年没
死亡地
アメリカ合衆国(フロリダ州 / オーランド)
出生地
アメリカ合衆国(Livingston Manor)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(フロリダ州)

伝記

ジョン・ローリー・モットは、1865年5月25日にアメリカのニューヨーク州リヴィングストン・マナーで生まれ、1955年1月31日にフロリダ州オーランドで没した、キリスト教青年会の指導者、伝道者である。1946年にノーベル平和賞を受け、20世紀でもっとも影響力のある宗教家の一人であったといわれる。

生まれた年の9月に、一家はアイオワ州ポストヴィルへ移った。16歳で家族のもとを離れ、メソジスト系のアッパー・アイオワ大学で学んだ。大学では歴史を専攻し、討論の学生としても賞を受けたという。その後、ニューヨーク州のコーネル大学に移った。在学中、J・E・K・スタッドの講演を聞いて、政治家になる夢を捨て、献身を決意したと伝えられる。マサチューセッツ州マウント・ハーモンで開かれた大学生向けの夏期学校では、ドワイト・ライマン・ムーディーやアーサー・タッパン・ピアソンの説教に感化され、献身を表明した。大学を卒業したのは1888年とも1889年ともされ、1891年に教師のレイラ・エイダ・ホワイトと結婚して、二男二女をもうけた。

卒業後は、キリスト教青年会の活動を中心に、世界の学生キリスト教運動や世界教会運動の指導者として働いた。1895年から1920年まで世界学生キリスト教連盟の総幹事を務め、1920年から1928年までは議長となった。1900年に著した『この世代における世界の福音化』は、20世紀初めの宣教の標語になった。1910年にはエディンバラで開かれた世界宣教会議で議長を務めた。この会議は近代のプロテスタント宣教の重要な節目とされ、モットは閉幕後に設けられた継続委員会の委員長として、会議の精神と成果を世界に伝えた。これがのちの世界教会協議会へつながっていく。1912年にはホワイト・スター・ライン社の関係者から、タイタニック号への無料乗船を勧められたが、同行者とともに断り、より質素な船を選んだ。事故を知ったとき二人は、「主にはまだ私たちにさせたい仕事があるのだろう」と語り合ったという。同じ年の10月から翌年5月にかけては、セイロン、インド、ビルマ、マレー、中国、朝鮮、日本を回り、十八の地域会議と全国会議を開いた。

日本には合計10回来日した。1913年には、エディンバラ会議の継続委員長として日本の教会指導者に協同伝道を提案し、2万円を寄付した。これを受けて日本の教会は、教派を超えた3年間の全国伝道「全国協同伝道」を計画し、1914年から実施して、77万7千人の会衆を集め、2万7千人の決心者を出したという。1925年と1926年の来日では、財界や政界の指導者を招いた集会でも講演し、1929年には勲一等瑞宝章を贈られた。昭和天皇は1922年から1949年にかけて5回、謁見を受けた。

1946年には、絶対非戦論者のエミリー・グリーン・ボルチとともにノーベル平和賞を受けた。1954年、89歳でエヴァンストンの世界教会協議会に出席し、「ジョン・モットが死んだなら、彼を伝道者として覚えよ」と述べた。1955年に亡くなると、昭和天皇は報に接して家族に弔意を伝えた。遺体はワシントン大聖堂に葬られた。1952年に最初の妻を亡くし、1953年にアグネス・ピーターと再婚していた。2022年には、米国聖公会の聖人暦に加えられた。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物