伝記
フェルナン・レジェは、1881年2月4日にフランスのノルマンディー地方のアルジャンタンで、畜産農家の息子として生まれた画家である。1897年からカーンの建築家のスタジオで修業し、1900年にパリへ出て、建築製図工の仕事で生計を立てた。兵役を終えたのち、美術学校への入学を断られて装飾美術学校に入り、アカデミー・ジュリアンにも通ったほか、美術学校にも聴講生としてジェロームらのもとで学んだ。後年、その頃を「空虚で無益な3年間」と振り返ったとされる。本格的に画家として制作を始めたのは25歳のときで、初期の作品は印象派風の風景画や人物画だった。1907年にパリのサロン・ドートンヌで開かれたセザンヌの回顧展に大きな影響を受け、素描と幾何学を重んじる方向へ進んだ。「自然を円錐、円筒、球として捉える」というセザンヌの言葉は彼の画風にも影響し、「森の裸体」(1909年から1910年)では人物が円筒形に還元されている。そのため作風は、キュビスムをもじって「チュビスム」(土管屋)と揶揄されたこともあった。
モンパルナスのアトリエ兼共同住宅「ラ・リュッシュ」にはシャガールらが住んでおり、レジェもそこでモディリアーニらと交わった。1910年に有力な画商カーンワイラーに認められ、1912年にカーンワイラー画廊で初の個展を開き、1913年には同画廊と専属契約を結んだ。同じ頃、ジャック・ヴィヨンやピカビア、メッツァンジェらのセクシオン・ドール(黄金分割)にも加わったが、このグループは長続きしなかった。
1914年に第一次世界大戦で従軍し、アルゴンヌの前線で2年を過ごした。1916年9月にはヴェルダンでドイツ軍のマスタードガス攻撃を受け、死にかけたという。療養中に描いた「トランプ遊び」(1917年)の人物は、ロボットのような姿に描かれた。彼は、日光に照らされた75ミリ砲の砲尾の姿に衝撃を受けたと語り、大砲など兵器の機能的な美に魅せられた。休暇中に見たチャップリンの映画も、のちの作風に影響を与えたという。以後は、人物とともに機械をモチーフとした作品が目立つようになる。1919年12月にジャンヌ=オーギュスティーヌ・ロイと結婚し、1920年に建築家ル・コルビュジエと知り合って生涯の友となり、以後は彼の建築の壁画を担当することが多くなった。1923年にミヨーのバレエ「世界の創造」の舞台美術を手がけ、1924年には実験映画「バレエ・メカニック」を制作した。
第二次世界大戦中の1940年からはアメリカで活動し、1945年に帰国してフランス共産党に入党した。戦後は壁画、ステンドグラス、舞台装置、陶器、版画、挿絵など幅広く制作し、国際連合総会のホールにも彼の壁画が寄贈されている。1949年には南仏ビオットで陶器の制作を始めた。1952年、71歳で弟子のロシア出身の画家ナディアと再婚し、エソンヌ県のジフ=シュル=イヴェットに移って、1955年8月17日に同地で没した。没後の1960年にはビオットにフェルナン・レジェ美術館が建てられ、開館式にはピカソ、ブラック、シャガール、文化相マルローも出席した。
同じ年に亡くなった人物
- 佐々木禎子 (1955年没)
- John Jarlen (1955年没)
- トリブバン・ビール・ビクラム・シャハ (1955年没)
- ジェームズ・エイジー (1955年没)
- ウジェーヌ・デルポルト (1955年没)
同じ地域に関係する人物
- ジェローム・ボナパルト (1860年没)
- ジャン・コクトー (1963年没)
- アルフレッド・マチュー・ジアール (1908年没)
- レオン・ポリアコフ (1997年没)
- セシル・オーブリー (2010年没)