伝記
イヴァン・スラツィミルは、1324年か1325年に生まれ、1397年に没したブルガリアのヴィディンの君主である。ロヴェチの僭主で後にブルガリア皇帝となるイヴァン・アレクサンダルと、その妻テオドラの次男にあたる。1337年、父が皇帝となった後、兄弟のミハイル、イヴァンとともに父の共同統治者に指名され、ヴィディンを領地として与えられた。しかし、それぞれの息子たちの特権がはっきり定められていなかったため、兄弟の間に対立が生じた。
1347年の末か1348年の初めに、父はユダヤ人女性サラと結婚するために最初の妻テオドラと離婚し、彼女を修道院に入れた。この出来事はスラツィミルと父の仲を悪くした。1350年か1351年にサラとの間にイヴァン・シシュマンが生まれると、親子の対立はいっそう強まった。長男ミハイルに子がなかったため、1352年、父は継承を円滑にするため若帝の称号を設け、これをスラツィミルに与えていた。1355年か1356年にミハイルがオスマン軍との戦いで命を落とすと、争いは頂点に達した。皇室の相続の制度では、スラツィミルがミハイルに次ぐ継承者になるはずだったが、父は帝位に就いた後に生まれたシシュマンを後継者に指名した。
父から勘当されたスラツィミルは、領地のヴィディンに戻って皇帝を自称した。1356年に「ブルガリア人とギリシア人の皇帝」の称号を用い、翌年にかけて、ワラキアとの同盟のため、従姉妹にあたるワラキア公女アンナと結婚した。ブルガリア王を自称するハンガリー王ラヨシュ1世が臣従を求めると、スラツィミルは父の暗黙の了解を得て、1365年までその宗主権を認めた。しかし1365年5月にハンガリー軍が進軍し、6月2日にヴィディンを占領した。3か月後には、ほかの領地も占領され、捕らえられたスラツィミルと家族は、現在のクロアチアにあるフムニク城に監禁された。4年間をハンガリーの保護下で暮らし、家族とともにカトリックへの改宗を余儀なくされた。フランシスコ会の宣教師による布教はブルガリア人に大きな不満を生み、結局は失敗に終わった。1369年、父がワラキア公ヴラディスラヴ1世とドブルジャの僭主ドブロティツァを加えた正教の連合軍を結び、ヴィディンへ進軍した。民衆の蜂起にも助けられて成功し、その秋にスラツィミルはヴィディンの支配を取り戻した。
1371年2月17日に父が没すると、スラツィミルは首都タルノヴォの帝室との連絡を断った。帝位に就いたシシュマンとは同格の君主として扱われた。1381年にはタルノヴォのブルガリア正教会との関係を絶ち、コンスタンティノープル総主教庁の下にヴィディン大主教を置いた。1388年にオスマン皇帝ムラト1世がブルガリア北東部で大規模な作戦を始めると、スラツィミルはオスマン帝国に臣従を誓い、ヴィディンへの駐屯を認めた。1393年にタルノヴォが陥落した後もヴィディンは独立を保ったが、1395年にシシュマンは殺された。
1396年、スラツィミルはハンガリー王ジグモンドが呼びかけた連合軍に加わり、十字軍がヴィディンに着くと城門を開いてオスマンの駐屯部隊を引き渡した。しかし9月25日のニコポリスの戦いで十字軍は大敗し、勝ったバヤジット1世はただちにヴィディンへ進み、1396年の末か翌年の初めに町を制圧した。捕らえられたスラツィミルはブルサの牢に入れられ、そこで絞殺されたと考えられている。娘ドロテアはボスニア王スチェパン・トヴルトコ1世に嫁いで女王となり、息子コンスタンティンは父の没後に皇帝を称してオスマン帝国からの独立を図った。
同じ年に亡くなった人物
- ヴューク・ブランコヴィチ (1397年)
- アルブレヒト2世 (バイエルン公) (1397年没)
- フランチェスコ・ランディーニ (1397年没)
- アンゲラン7世・ド・クシー (1397年没)
- ヨハン2世 (バイエルン公) (1397年没)
同じ地域に関係する人物
- テオドロス1世ラスカリス (1222年没)
- シェザーデ・アフメト (1513年没)
- アドナン・メンデレス (1961年没)
- Ali Beratligil (2016年没)
- ヨハネス4世ラスカリス (1305年没)