HISTORICAL PERSON · 1397年没

トマス・オブ・ウッドストック

初代グロスター公。甥リチャード2世の側近政治打破を図る訴追派貴族の首領として常設委員会を主導したが、後に反撃を受けカレーで拘禁中に殺害された。

生涯
1397年没
死亡地
フランス共和国(パ=ド=カレー県 / カレー)
出生地
イギリス連邦(ウッドストック宮殿)
出典
世界地図
フランス共和国(パ=ド=カレー県)

伝記

トマス・オブ・ウッドストックは、1355年1月7日にオックスフォードシャーのウッドストック宮殿で生まれた初代グロスター公である。イングランド王エドワード3世と王妃フィリッパ・オブ・エノーの末子で、第13子にあたる。成人した5人の王子のひとりで、黒太子エドワード、クラレンス公ライオネル、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーント、ヨーク公エドマンドの弟である。すぐ上の2人の兄は夭折し、そのうち1人もトマスと名づけられていた。1374年か1376年に、ヘレフォード伯ハンフリー・ド・ブーンの娘エレノアと結婚した。義妹メアリー・ド・ブーンは、のちに甥のヘンリー・ボリングブルック、のちのヘンリー4世の妻となった。1377年に22歳でバッキンガム伯となり、1380年には妻の権利でエセックス伯を継いだ。

1380年7月、トマスは大軍を率いてカレーに上陸し、パリの東へ進んだ。ブルゴーニュ公フィリップ豪胆公の軍とトロワで向き合ったが、フランス側は会戦を避け、両軍は引き上げた。9月にフランス王シャルル5世が死ぬと、トマスは西へ進み、11月にナントを囲んだが、赤痢が兵を苦しめ、ブルターニュ公がフランスと和解したことで同盟が崩れ、包囲を解いた。1381年に帰国し、農民一揆の鎮圧にも加わった。1385年にはオーマル公となり、同じころ新たに創設されたグロスター公に叙せられた。それでも甥のリチャード2世に対しては敵対的な態度をとり、国王の側近を倒そうとする貴族の一派、訴追派貴族の首領格となった。

1386年3月に調停役の兄ランカスター公がカスティーリャへ遠征すると、アランデル伯らとともに、10月の議会で国王側近のサフォーク伯マイケル・ド・ラ・ポールを弾劾して投獄に追い込んだ。さらに国王に圧力をかけ、国政を主導し王の財政を監視する常設委員会を置かせて、自ら委員長となった。リチャード2世が軍勢を集め始めると、1387年末にラドコット橋で側近アイルランド公ロバート・ド・ヴィアーの軍に不意打ちをかけて大勝し、王はロンドン塔に謹慎した。1388年2月の議会で、アイルランド公ら側近8人が反逆罪で弾劾されたとき、王は処刑を認めるしかなかった。しかし委員会はスコットランドとの戦いに敗れ、弾劾の正当性にも疑問の声が上がって窮地に陥った。1389年5月、リチャード2世は親政を宣言して委員会を廃止し、グロスター公らは解任された。11月にカスティーリャから帰国した兄の調停で、王とは和解した。

1396年にリチャード2世はフランスと休戦し、シャルル6世の娘イザベラと再婚した。これに訴追派貴族が反発すると、1397年7月、王は訴追派貴族を晩餐に招いた。彼らが招きを無視したことを理由に、王は大逆罪を適用した。アランデル伯は処刑され、ウォリック伯は終身刑となり、グロスター公は拘束されてカレーで拘禁された。1397年9月8日か9日、彼は何者かに殺された。差し向けたのが王であることは誰の目にも明らかだったとされ、貴族たちの抗議が王の不人気に拍車をかけたと考えられている。大逆罪の審理中だったため、息子ハンフリーはグロスター公位を継げず、公位は一代限りで絶えた。

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