伝記
崇光天皇は、1334年5月25日(建武元年4月22日)に生まれた、北朝の第3代天皇である。諱は益仁、のちに興仁と改めた。光厳天皇の第一皇子で、母は正親町三条公秀の娘の秀子である。北朝が成立したとき、父の光厳上皇は興仁ではなく、花園法皇の皇子である直仁親王を皇太子に立てることを望んだ。その理由については、幕府との関係を重んじたためとする説と、幼いころ花園から帝王教育を受けた恩に報いるためとする説があり、定説はない。ただ、実子がいるのに従弟の直仁を立てることに異論を唱える廷臣が多く、光厳もやむなく興仁を立てることにし、1338年に皇太子とした。
1348年10月27日、叔父の光明天皇から譲位を受けて即位した。父の光厳上皇が院政を執り、皇太子には予定どおり直仁親王が立てられ、崇光天皇は一代かぎりの天皇となる予定であった。やがて足利家の内紛から観応の擾乱が激しくなり、天皇は安全のためにたびたび持明院殿へ行幸した。1351年に足利尊氏が南朝に帰順して正平一統が成立すると、北朝は消滅し、11月に南朝の後村上天皇によって廃された。ただ、直仁親王は廃太子されず、光厳上皇の所領も後村上天皇によって安堵され、崇光も後村上から太上天皇の尊号を受けた。南朝は持明院統に対し、懐柔の政策を採っていたのである。
1352年2月、南朝は京都から足利義詮の軍勢を追い出して占領し、幕府との和平を破って戦いを再開した。このとき、光厳、光明、崇光の3上皇と直仁親王らは、南朝の本拠の賀名生へ連れ去られた。北朝は新しい天皇の践祚に必要な三種の神器を南朝に渡しており、天皇を任命できる上皇もみな連れ去られていたため、再興には大きな困難があった。たまたま拉致を免れた光厳の第二皇子で、崇光の同母弟にあたる弥仁王が擁立され、祖母の広義門院が光厳に代わって主導して、後光厳天皇が践祚した。上皇たちは1354年3月に河内の金剛寺へ移され、1355年には光明上皇だけが京都に返された。崇光は父のもとで琵琶を学んでおり、金剛寺では1355年10月に秘曲「楊真操」、翌年5月には「石上流泉」などを伝授された。延文元年10月には、光厳の在俗最後の事業として最秘曲「啄木」も授けられた。持明院統では琵琶は正嫡のみが修得するとされていたことから、光厳と崇光の間では、崇光の皇統が正嫡であるとの見方が一致していたと思われる。
3年あまりの抑留ののち、1357年2月に光厳、直仁親王とともに帰京した。直仁親王はすでに出家していたため、光厳は崇光を持明院統の正嫡に定めた。帰京後、崇光と後光厳の関係は良好だったとされるが、1370年8月に後光厳が第二皇子の緒仁への譲位を望むと、決裂した。崇光は自らの第一皇子である栄仁の即位を要求して争ったが、幕府の不介入の方針もあり、後光厳に押し切られて、後円融天皇が即位した。1382年に後円融が幹仁、のちの後小松天皇に譲位しようとしたときは、崇光は栄仁の即位を主張せず、足利義満も後円融を強く支持したため、栄仁の即位は実現しなかった。1398年1月31日、失意のうちに65歳で崩御した。没後30年の1428年、曾孫の彦仁王が後小松院の猶子として後花園天皇となり、崇光の皇統は天皇家に返り咲いた。琵琶に関する著作を多く書写し、日記に『崇暦御記』『不知記』が残る。
同じ年に亡くなった人物
- カドゥ・ブルハネッディン (1398年)
- マチュー (フォワ伯) (1398年没)
- ループレヒト2世 (プファルツ選帝侯) (1398年没)
- ロジャー・モーティマー (第4代マーチ伯) (1398年没)
- Iakovos I of Cyprus (1398年没)
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