HISTORICAL PERSON · 1956年没

コンスタンティン・フォン・ノイラート

ドイツの外交官、政治家。1932年から1938年に外務大臣、その後ベーメン・メーレン保護領総督を務め、戦後はニュルンベルク裁判で懲役15年となった。

生涯
1956年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(バーデン=ヴュルテンベルク州 / エンツヴァイヒンゲン)
出生地
ドイツ連邦共和国(Kleinglattbach)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(バーデン=ヴュルテンベルク州)

伝記

コンスタンティン・フォン・ノイラートは、1873年2月2日にヴュルテンベルク王国のクライングラットバッハで生まれたドイツの貴族、外交官、政治家である。父は荘園領主で、ヴュルテンベルク王国の宮廷役人を務めた男爵コンスタンティン・ゼバスチャン・フォン・ノイラートだった。テュービンゲン大学とベルリン大学で法学を学んで博士号を取り、1897年に司法試験に合格して、故郷の法務官僚となった。1901年にドイツ外務省へ入り、同年に銀行家の娘と結婚した。1903年から1908年まで駐ロンドン大使館の副領事を務め、その後は6年間、外務省本省で参事官として勤務した。1914年からは駐コンスタンチノープル大使館の参事官を務めた。

第一次世界大戦中の1916年には、擲弾兵の予備役将校として従軍し、終戦までに予備役中尉に昇進した。連隊勤務のなかで、オスマン帝国で行われたアルメニア人虐殺を目の当たりにしたという。1917年から翌年までは、自らの希望で叔父からヴュルテンベルク王国の民政長官の職を受け継ぎ、国王ヴィルヘルム2世の側近くに仕えた。戦後はエーベルト大統領の要請で外務省に復帰し、1919年にデンマーク公使、1921年から1930年までイタリア大使、1930年から1932年まで駐英大使を務めた。イタリア大使の時期にはムッソリーニのファシズムに感銘を受けたという。貴族出身で保守的なノイラートはヴァイマル共和制に反対し、ヴェルサイユ条約の改正を主張した。この性格からヒンデンブルク大統領のお気に入りとなった。

1932年6月、ヒンデンブルクの強い要望を受けて、パーペン内閣の外務大臣に就いた。閣僚に貴族が多いため、この内閣は「男爵内閣」と揶揄された。同年のローザンヌ会議にも出席し、ドイツの賠償金は大幅に減らされた。12月の閣議でシュライヒャーを支持して、パーペンの失脚に一役買い、シュライヒャー内閣でも、1933年1月30日に成立したヒトラー内閣でも外相に留まった。実務経験の乏しいヒトラー内閣に威信を与える役割を担った。外交政策では、国際連盟からの脱退や徴兵制の再導入、ラインラント進駐などを積極的に支持した。1934年1月26日には、ポーランドとの10年期限の不可侵条約を結んだ。

しかし、ヒトラーの私的外交顧問リッベントロップが頭角を現すと、ノイラートの活動は制限された。英独海軍協定の交渉もリッベントロップが担い、外務省の面目は丸つぶれとなった。1937年にナチ党に入党し、親衛隊にも名誉階級で加わった。オーストリア併合は支持したが、ヒトラーの戦争計画には反対し、1938年2月4日に外相を解任されて、無任所大臣となった。1939年にチェコスロバキアが解体されると、ベーメン・メーレン保護領の総督に就いた。チェコ人のレジスタンスの鎮圧にあたり、チェコ人の政治文化の抑圧やニュルンベルク法の施行も担った。ただ統治は穏健で、ヒトラーを失望させた。1941年にハイドリヒが副総督として赴任すると実権を失い、1943年8月24日に総督を辞職した。

終戦時にフランス軍に逮捕され、ニュルンベルク裁判で全ての訴因で起訴された。1946年6月22日の反対尋問では、保護領で自分はチェコ人を守ったと証言した。しかし、検事が示したチェコ人の追放や「特別処置」を主張する報告書を前に、狼狽してしまった。10月1日、四つの訴因すべてで有罪とされたが、チェコ人の学生らの釈放に介入した点などを減刑の事由とされ、禁固15年の判決を受けた。1947年7月にシュパンダウ刑務所に移された。1956年8月14日に没した。

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