HISTORICAL PERSON · 1956年没

アルバン・W・バークリー

アメリカの政治家。1949年から1953年まで第35代副大統領を務め、ケンタッキー州選出の上院議員として院内総務も歴任した。

生涯
1956年没
死亡地
アメリカ合衆国(バージニア州 / レキシントン)
出生地
アメリカ合衆国(Lowes)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(バージニア州)

伝記

アルバン・ウィリアム・バークリーは、1877年11月24日にケンタッキー州ウィールの丸太小屋で生まれたアメリカ合衆国の政治家で、第35代副大統領である。八人きょうだいの長男で、生まれたときの名はウィリー・アルバンといった。祖母の産婆が、祖父アルバンと暮らす家で取り上げたという。両親のジョン・ウィルソンとエレクトラ・イライザは、タバコを育てる小作農で信心深く、トランプや酒に反対した。物心がつくとすぐ、自分の名に不満を抱いて「アルバン・ウィリアム」を名乗るようになった。秋の収穫から春の種まきまでの間に近くの学校へ通い、1891年末に一家がクリントンへ移ると、メソジスト系のマーヴィン・カレッジに入学した。学長は学費を免除する代わりに用務員の仕事をさせ、農繁期の欠席も認めた。弁論部で活躍し、1897年に卒業して、この大学での経験からメソジストに改宗し、生涯その教派に属した。

その後エモリー・カレッジに学んだが、学費が続かずクリントンに戻り、母校で教えたものの生活費にも足りなかった。1898年12月に両親とパデューカへ移り、弁護士で下院議員のチャールズ・ウィーラーのもとで書記として働き、報酬として蔵書の閲覧を認められた。バージニア大学の法律学校で学び、1901年に法曹界に入ってパデューカで弁護士を開業した。1905年から1909年までマクラケン郡検察官、1909年から1913年までは同郡裁判所の判事を務め、都市の住民よりも農民に寄り添う進歩派として名声を築いた。気さくで精力的な選挙運動と巧みな演説で民主党の有力候補となり、1912年の予備選で3人の対立候補を破って下院議員となった。

下院ではケンタッキー州第1選挙区から1913年から1927年まで選ばれ、禁酒法の改正などに尽力した。1923年の知事選の予備選では、石炭やギャンブルへの反対運動を率いて名を知られ、僅差で指名を逃したが、この敗北が1926年の上院選への出馬につながった。一日に最大16回もの演説をこなして「鉄人」と呼ばれ、この年に上院議員に選ばれた。以後1932年、1938年、1944年と再選され、1937年から1947年まで院内総務、1947年から1949年まで少数党の院内総務を務めた。1932年と1936年、1948年の民主党全国大会では基調演説を行っている。ニューディール関連法の成立にも取り組み、1937年に院内総務ジョセフ・ロビンソンが死去すると、パット・ハリスンと争って38対37の1票差で後任に選ばれた。最初の妻ドロシーは1947年に病没した。

1948年の大会でも基調演説で代議員を奮い立たせ、トルーマン大統領の副大統領候補に選ばれて、民主党は下馬評を覆して勝利した。1949年1月20日から1953年1月20日まで副大統領を務め、朝鮮戦争が大統領の関心を占めるなか、政権の主要な報道役を担った。1952年には民主党の大統領候補の指名を目ざしたが、高齢を理由に労働団体の支持が得られず、指名は得られなかった。その後上院議員に復帰し、1954年の選挙で現職の共和党議員を破り、1955年1月3日から死去まで務めた。1956年4月30日、バージニア州レキシントンで心臓発作のため世を去り、ケンタッキー州パデューカ近郊のケントン山墓地に葬られた。娘婿は外交官のダグラス・マッカーサー2世である。

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