伝記
コンスタンティン・パッツは、1874年2月にロシア帝国リヴォニア自治区パルヌ県(現在のエストニアのタフコランナ教区)に生まれた政治家で、エストニア共和国の初代大統領である。地元の言い伝えでは、母が病院に間に合わず、路傍の農園の納屋で生まれたという。父ヤコブは大工、母オルガはロシア人とエストニア人を両親に持ち、父もルター派から正教会に改宗していたため、兄弟は正教会の厳格な伝統の中で育った。1887年から1892年までリガの神学校に学んだが、聖職者にならないと決めてパルヌの高等学校へ移った。1894年から1898年にタルトゥ大学法学部で学んで法学士となり、ほどなく徴兵されて旗手を務めたあと、1900年に首都タリンへ移った。
タリンではヤーン・ポスカの法律事務所で助手として働いたが、満足できず、自らの新聞を立ち上げようと考えていた。同じ志の新聞記者たちと協力し、パッツを正教会と深い関係を持つ弁護士として担ぎ上げることで、ロシア内務省から免許を得た。1901年10月23日に創刊された新聞『テタージャ』は、期待されたような帝国への忠誠ではなく自由主義的な主張を掲げ、国家主義の『ポスティメース』とその主筆トニッソンを相手に、エストニアの将来像をめぐって論争を繰り広げた。1904年にはタリン市の相談役となり、市議会議員に辛くも当選して、翌年には市長補佐と市議会議長を務めた。1905年の革命のころにはバルト諸国の自治と民主化を訴える活動家となっており、新聞が発禁とされるとスイスへ逃れ、そこで自分が死刑を宣告されたと知った。
1906年にはヘルシンキへ移って文筆を続け、1909年に妻ヘルマの病が重くなると、ロシアがもはや彼の死を望んでいないと知ってエストニアに戻った。1910年2月にサンクトペテルブルクの刑務所に収監され、その間に妻がスイスで結核のため亡くなった。1911年に釈放されたのち、改めて新聞を創刊して『タリン・テタージャ』と名付けた。1917年にはエストニア軍人最高会議の議長に選ばれ、エストニア自治議会の議員となって、議長にも選ばれた。十月革命でボリシェヴィキが支配権を握ると、議会は解散させられ、地下活動に潜った。1918年2月19日に3人の救世委員会の一人となり、2月24日に独立宣言を発表した。直ちに臨時政府が組織されて、首相を務めたが、ドイツ軍がタリンを占領し、6月16日に逮捕された。11月に終戦で解放され、陸軍大臣を兼ねてエストニア国防軍を組織し、独立戦争に取り組んだ。1919年の独立記念日の演説では、友好国への依存を弱めるため農業国としての地位を確立すべきだと述べ、これはその後20年間の財政政策の目標となった。
1920年代から1930年代前半は、有力な右寄りの党を率い、国会議長を務めたほか、国老(首相に相当する職)に5回就いた。1934年、右翼ポピュリズムの政治結社を無力化するため、陸軍と議会の支持を得てクーデターを成功させ、エストニアは実質的な権威主義体制に移った。この「沈黙の時代」にエストニアは経済成長を達成し、1938年に新憲法を可決させて初代大統領となった。1940年にソ連が進駐すると、クレムリンの要求で一か月以上にわたり大統領令に署名させられ、エストニアはソビエト化された。地位を追われた後の7月に逮捕され、ロシアへ強制送還された。1956年1月18日、収容されていたカリーニン州の精神病院で獄死した。
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