伝記
ピエトロ・バドリオは、1871年9月28日にピエモンテ地方の町グラッツァーノ・モンフェッラートで生まれたイタリアの軍人・政治家である。父マリオは小地主で、母アントニエッタは小ブルジョワの家の出だった。トリノの士官学校を卒業して砲兵となり、1896年の第一次エチオピア戦争に青年将校の一人として従軍した。同年3月1日のアドワの戦いでは撤退する友軍の掩護に活躍し、司令官バラティエリが敗北の責任を負わされて失脚するなか、その働きを認められて少佐に昇進した。1911年のリビア戦争でも功により勲章を受けている。第一次世界大戦では歩兵師団の参謀長や軍団長などを歴任し、1916年に少将、1917年に中将となった。オーストリア・ハンガリー帝国との休戦条約の交渉には、イタリアの全権として派遣された。
1919年12月、陸軍大将に昇進してディアズの後任の陸軍参謀長となった。1922年のムッソリーニのローマ進軍に反発する発言をして一時は軍を追われ、ブラジル大使に左遷されたが、1928年までその地位にあり、1925年に国防参謀長、1926年に元帥となった。1928年に国王からサボティーノ侯爵に叙され、同年から1933年までリビア総督を務めた。1935年に始まった第二次エチオピア戦争では、慎重策をムッソリーニに批判されたデ・ボーノ将軍の後任として司令官となった。各軍に強行軍での進撃を命じ、抵抗の強い地域には毒ガスの散布や焼夷弾の爆撃を行って、早期の征服を実現した。1936年5月5日にアディスアベバへ入城し、ムッソリーニがエチオピア併合を宣言して戦争が終わると、イタリア領東アフリカの副王となり、さらにアディスアベバ公爵の位を国王から賜った。毒ガスの使用は戦争犯罪にあたるとの意見がある一方、エチオピア側の戦争犯罪への報復だったと主張する者もいる。
第二次世界大戦の前には、イタリア軍の戦力不足を指摘して参戦に反対し、全ての職を辞して隠遁した。ドイツの電撃戦の勝利を見て参戦を決めたムッソリーニに、「それは自殺だ」と述べたとされるが、チャーノ外相の日記には、開戦に向けた会議で嬉しそうな顔をしていたと記されており、態度は一貫しなかったとする見方もある。戦局が悪化すると、ムッソリーニを批判するようになった。1943年7月24日のファシズム大評議会で、統帥権を国王に返還するグランディ決議が過半数を得ると、ムッソリーニは翌25日に国王に拘束され、バドリオが首相に任命された。就任演説では「戦争は依然続く」と述べながら、国王の意向を受けて連合国と秘密裏に休戦交渉を進め、9月3日に秘密休戦協定が結ばれた。
ところが9月8日、アイゼンハワーがイタリア側の了承なしに無条件降伏を発表し、ドイツ軍がローマに迫った。国王一家とバドリオ政権の閣僚は南部のブリンディジへ逃れ、ローマは10日にドイツ軍に占領された。ムッソリーニは救出されて北中部にイタリア社会共和国を樹立し、10月13日、バドリオはドイツに宣戦を布告した。イタリアは南北に分断され、内戦状態に陥った。共産党のトリアッティを副首相に迎えるなど内閣を改造したが、1944年6月にボノーミに首相の座を譲り、公職から退いた。ドイツ軍にまともに抵抗せず首都を放棄したことで、国民の支持を失っていたことも一因とされる。1956年11月1日、故郷で喘息の発作により85歳で亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- トミー・ドーシー (1956年没)
- メーグナード・サーハー (1956年没)
- アレクサンドル・グレチャニノフ (1956年没)
- アリーアクバル・デフホダー (1956年没)
- 溝口健二 (1956年没)
同じ地域に関係する人物
- マリア・マザレロ (1881年没)
- ジョヴァンニ・ゴリーア (1994年没)
- サンドロ・サルヴァドーレ (2007年没)
- ドミニコ・サヴィオ (1857年没)
- ルイジ・マルキジオ (1992年没)