伝記
ニリュフェル・ハトゥンは、オスマン帝国の第2代スルタン、オルハンの妃で、後継者ムラト1世の母である。ルルフェルやユルフェルとも呼ばれ、没したのは1363年とも、それ以降ともいわれる。名のニリュフェルはペルシャ語で「睡蓮」を意味し、ハレムで与えられた名であった。
伝えられるところでは、彼女はギリシャ系の出身の奴隷の側室で、1325年にオルハンのハレムに入り、イスラム教に改宗してニリュフェルの名を与えられた。翌1326年に、のちのムラト1世を産んだ。1331年より後には、息子とともにイズニクへ移された。1362年3月にオルハンが亡くなると、息子のムラトがスルタンの位を継ぎ、ニリュフェルは、キリスト教徒の奴隷の出身でありながらオスマン家のスルタンの母となった最初の女性になった。彼女は、救貧用の施設イマレット、公衆浴場、隊商宿、そのほか18の建物の建設を命じた。これらは慈善を目的としたものが多かった。
没した日は確かには分からず、1363年から1383年のあいだと推定されている。彼女はブルサで亡くなり、同じ町にあるオルハンの廟に葬られた。1388年、ムラト1世は母をしのんで、イズニクにニリュフェル・ハトゥン・イマレットの建設を命じた。費用は母が残した寄進財産でまかなわれた。もとは托鉢修道者の修道場で、1950年代に修復され、1960年からイズニク博物館として公開されている。
彼女についての従来の話は、ひどく混乱している。スルタンの母でありながら奴隷の出身だったため、のちの歴史家たちが彼女を高貴な出自にしようとして、作り話や、オルハンの別の妃にまつわる話を彼女に結びつけたからである。たとえば、ニリュフェルはビレジクの領主の娘ホロフィラという名のビザンツ貴族の女性だったと語られてきたが、これはオルハンの妃バヤルンとアスポルチャの話が混ざったものである。領主の娘が連れ去られたのは1299年で、ニリュフェルがハレムに入る20年以上前のことだった。同じように、1331年にブルサでイブン・バットゥータが会ったオルハンの妃も、ニリュフェルではなく、バヤルンかアスポルチャだったという。また、オルハンの息子たちの中で最も寵愛され、1357年に狩りの事故で亡くなるまで後継者と見られていたスレイマン(1306年生)の母が、ニリュフェルとされてきたが、実際の母はエフェンディゼ・ハトゥンで、スレイマンはニリュフェルが現れる20年前に生まれていた。
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