HISTORICAL PERSON · 1401年没

ヴワディスワフ・オポルチク

オポーレ公。ハンガリー宮中伯として司法組織を整えたが軍事遠征の失敗で解任され、その後もポーランド宮中伯を退けられるなど浮沈の激しい生涯を送った。

生涯
1401年没
死亡地
ポーランド共和国(オポレ県 / オポレ)
出生地
—
出典
世界地図
ポーランド共和国(オポレ県)

伝記

ヴワディスワフ・オポルチクは、1332年ごろに、オポーレ公ボルコ2世の長男として生まれた。母はシフィドニツァ公ベルナルトの娘エルジュビェタである。幼いころのことはよく分かっていない。若い公子は政治の経験を積むため、1353年ごろにハンガリーへ赴き、1356年に父が死ぬまで同国で過ごした。滞在中の1355年ごろには、エルジェーベトと最初の結婚をし、3人の娘をもうけた。父の死後、2人の弟ボルコ3世、ヘンリクとともにオポーレ公国の共同統治者となったが、気の強いヴワディスワフはすぐに統治権を独り占めし、弟たちには小さな分領を与えて追い出した。

ヴワディスワフの政治的な経歴は、1360年代半ば、ハンガリー王ラヨシュ1世の宮廷で始まった。1364年にはクラクフ会議に出席した。1365年には弟ヘンリクが子を残さず死んだ。1366年には、ボヘミア王との交渉でラヨシュ1世に有利な条件を得る任務を担った。1367年、王家への忠勤が認められて、国王に次ぐ地位である宮中伯(副王)に任じられた。宮中伯は広範な司法権を握る役で、ヴワディスワフは宮中の諸事を司る4つの委員会を創設するなど、献身と統治の能力を示した。1369年にはマゾフシェ公シェモヴィト3世の娘エウフェミアと再婚した。1370年にポーランド王カジミェシュ3世が死ぬと、ラヨシュ1世がポーランド王位を得られるよう奔走し、その功績でヴィエルニとチェンストホヴァを与えられた。1371年にボヘミアへの軍事遠征を指揮してモラヴィアを荒らしたが、そのためカール4世がラヨシュ1世にヴワディスワフの解任を求め、1372年10月、予期せず宮中伯の地位を失った。

その償いとして、ハールィチ・ヴォルィーニ総督の地位を得た。主にルヴフに住み、任地の経済的発展にも貢献したが、東方正教会に近づいたことで、熱心なカトリックの大貴族たちを怒らせた。1378年にはポーランド宮中伯に転任したが、ラヨシュ1世が娘を後継に指名したことへの貴族の反発に遭い、辞任を求められてまた解任された。続いてドブジン地方の諸都市の支配を任され、ドイツ騎士団と友好関係を築いた。教会との関係を良くするためにチェンストホヴァのヤスナ・グラに修道院を寄進し、「黒い聖母」を安置したともいう。1382年に、従兄のヘンリクと弟のボルコ3世が相次いで死に、ヴワディスワフはスチェルツェ、ニェモドリン、翌1383年にはグウォグヴェクの支配者となった。

1382年9月10日にラヨシュ1世が没すると、ヴワディスワフはポーランド王位の候補に名乗りを上げたが、貴族の支持を得られず、末娘ヤドヴィガが即位して、のちにリトアニア大公ヨガイラが王に選ばれた。1388年、ヨガイラがブィドゴシュチュの支配権を取り上げると、ヴワディスワフはヴァヴェル城を奪って王を捕らえようとするクーデターを指揮したが、敗れて捕らえられ、二度と王位を要求しないと誓わされた。1391年にズウォトゥフをドイツ騎士団に譲ると約束すると、ヨガイラはポーランド王国内の領土をすべて取り上げ、ヴワディスワフは1392年にそれらを返還した。ドイツ騎士団総長を動かしてポーランドを攻めさせる企ては、1396年にポーランド軍がスチェルツェを占領し、甥たちも和平を結んだことで行き詰まり、ヴワディスワフは引退を余儀なくされた。

野望の失敗に深く失望しながら、1401年5月、オポーレで死去し、フランシスコ会の修道院に葬られた。息子がなく、遺領は甥のボルコ4世とベルナルトが相続した。

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