伝記
オリヴァー・ハーディは、1892年1月18日、アメリカのジョージア州ハーレムで、ノーヴェル・ハーディの名で生まれた。父オリヴァーは南北戦争の南軍の退役軍人で、1862年のアンティータムの戦いで負傷し、のちに徴募将校を務めた。戦後は綿花農園の残りを営む自分の父を手伝い、小売業の持ち分を買って、コロンビア郡の専任の徴税官に選ばれた。母エミリーとは1890年3月に結婚したが、彼女にとっては二度目、彼にとっては三度目の結婚であった。一家は1891年にマディソンに移り、翌年ノーヴェルが生まれた。母の故郷コヴィントンで生まれたとする資料もある。父は彼が生まれて1年足らずで世を去った。5人きょうだいの末っ子で、兄サムはオコニー川で溺れ、引き上げたものの蘇生できなかったという。
子供の頃は手を焼かせることもあり、5年生のときにミルジヴィルのジョージア陸軍学校に入れられた。1905年、13歳でヤング・ハリス・カレッジの中学部に入り、翌年1月に修了した。学校教育にはほとんど関心がなかったが、音楽と演劇には早くから興味を持ち、劇団に加わり、アトランタ近郊の寄宿学校を抜け出してその劇団と歌ったこともある。歌の才能に気づいた母は、彼をアトランタに送り声楽教師に学ばせたが、レッスンを抜け出しては週3.5ドルの報酬でアルカザール劇場で歌っていた。1912年にはフットボールをするためだけにジョージア大学の法学科の講座を取り、試合は一度も欠かさなかった。十代の頃から、父に敬意を表して「オリヴァー」を名乗るようになり、以後の公的な記録ではこの名を用いた。
1910年、故郷ミルジヴィルに映画館パレスが開くと、映写技師や切符係、掃除、さらに支配人まで務め、新しい映画産業に夢中になった。自分は画面の俳優たちよりもうまくやれると確信したという。友人の勧めで1913年に映画が撮られていたフロリダ州ジャクソンビルへ移り、夜はキャバレーやヴォードヴィルの歌手、昼はルービン社で働いた。そこでピアニストのマデリン・サロシンと知り合い、1913年11月17日にメイコンで結婚している。翌1914年にルービン社の映画で初出演し、周囲からは「ベイブ」と呼ばれた。身長は185センチ、体重は最大で300ポンドに達し、その体格が演じられる役を限ったため、悪役が多かったが、喜劇の短編にも出た。1915年までにルービン社で50本の短編を撮り、ニューヨークやジャクソンビルの各社でも出演した。1916年から17年には、10本の短編を監督または共同監督している。1917年にはロサンゼルスに移り、1918年から23年にヴィタグラフ社で40本以上の映画に、主にラリー・セモンの相手役の悪役として出演した。1919年に妻と別居し、1920年11月に暫定的な離婚が成立した。ジャクソンビルでフリーメイソンの支部に入会しており、芸能界で駆け出しの頃には、そのつながりで宿と食事の面倒を見てもらったという。
のちにスタン・ローレルとコンビを組み、サイレント映画の時代の1926年に始まったこの二人組は、1957年まで続いた。二人は107本の短編、長編、ゲスト出演の作品に出た。ハーディは1957年8月7日に没した。
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