伝記
リチャード・イヴリン・バードは、1888年10月25日、アメリカのヴァージニア州ウィンチェスターで、リチャード・イヴリン・バード・シニアとエスター・ボリングの子として生まれた。ヴァージニア植民地以来の名家の出で、祖先にはジョン・ロルフとその妻ポカホンタス、リッチモンドを築いたウィリアム・バード2世らがいる。兄のハリー・F・バードは州知事や上院議員となり、父も一時ヴァージニア州下院の議長を務めた。ヴァージニア軍事学校に2年通い、ヴァージニア大学に移ったが、経済的な事情から出直しを決め、1908年5月に海軍兵学校の生徒となった。1912年6月8日に卒業して少尉に任官し、戦艦ワイオミングに配属された。カリブ海での勤務中、海に落ちた水兵を救うため服を着たまま二度飛び込み、のちに銀の人命救助章を受けた。次の配属は海軍長官のヨットを兼ねる砲艦ドルフィンで、そこで海軍次官だったフランクリン・ローズヴェルトら要人と知り合い、1915年6月に中尉に昇進した。
だが、大統領のヨット、メイフラワーで足首を痛め、1916年3月15日、本人の大きな不満のなか、医療上の理由で退役となった。その後ロードアイランド海軍民兵の検査官兼教官となり、第一次世界大戦の参戦後は現役に復帰した。1917年秋にフロリダ州ペンサコーラの海軍航空学校に入り、1918年6月に海軍飛行士の資格を得て、7月からカナダのハリファックスの航空基地で部隊を率いた。
1926年5月9日、フォッカー3発機「ジョセフィン・フォード」号でスピッツベルゲンのキングス湾から北極点まで15時間で往復し、航空機で初めて北極点に達したと発表した。ただし、実際に北極点に到達したかどうかには疑問も出されており、申告した飛行距離は機体の燃料で飛べる範囲を超えていたとの見方が一般的とされる。1927年には3発機「アメリカ」号で、オルティーグ賞のかかった大西洋横断飛行に挑んだ。事故などで出発が遅れ、6月29日から7月1日にかけてノルマンディーに不時着しながらも横断に成功したが、リンドバーグより1か月以上あとだった。1929年11月28日から29日には、南極大陸ロス氷原のリトル・アメリカ基地から南極点まで、フォード4AT3発機「フロイド・ベネット」号で往復し、初の南極点上空飛行を果たした。乗員はバードを含めて4名、飛行時間は15時間51分であった。この南北両極への飛行で国民的英雄となり、遠征を記録した映画『バード少将南極探険』は、アカデミー賞の撮影賞を受けた。
1915年にマリー・エイムズと結婚して4人の子をもうけ、のちに南極で見つけた領域に妻の名からマリーバードランド、山脈に妻の父の名からエイムズ山脈と名づけた。フォード社の創業者ヘンリー・フォードと息子エドセルとは親しく、その援助を得て遠征の資金を調達できた。愛犬イグルーは北極と南極の両方に同行した。1939年から1950年代にかけて、5度にわたる海軍の南極調査を指揮し、1946年から47年にはハイジャンプ作戦にも当たった。最終階級は海軍少将で、名誉勲章と海軍十字章を受けた。1957年3月11日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- フリーダ・フロム=ライヒマン (1957年没)
- ウィーラー・ドライデン (1957年没)
- セム・ドレスデン (1957年没)
- エリーザベト・マリー・フォン・バイエルン (1957年没)
- ジョルジュ・エベル (1957年没)
同じ地域に関係する人物
- レイ・バーブチ (1988年没)
- ナサニエル・ゴーラム (1796年没)
- イサドール・シンガー (2021年没)
- ケヴィン・マッカーシー (2010年没)
- エドワード・ヒッチコック (1864年没)