HISTORICAL PERSON · 1957年没

エリッヒ・フォン・シュトロハイム

ウィーン生まれでハリウッドで活躍した映画監督・俳優。徹底したリアリズムで知られ、完全主義者・浪費家などと呼ばれ、サイレント映画の三大巨匠の一人とされる。

生涯
1957年没
死亡地
フランス共和国(イヴリーヌ県 / モールパ)
出生地
オーストリア共和国(ウィーン)
出典
世界地図
フランス共和国(イヴリーヌ県)

伝記

エリッヒ・フォン・シュトロハイムは、1885年9月22日にオーストリア=ハンガリー帝国のウィーンで、ユダヤ系ドイツ人の両親のもとに生まれた映画監督・俳優である。父は帽子職人で、本人も商業学校を卒業したのち帽子職人となった。1906年に陸軍に入り、翌年除隊して、1909年にアメリカへ渡った。出自は貧しいユダヤ系オーストリア人だったが、新天地で幅を利かせるために、いかにもドイツ風の風貌と尊大な振る舞いを映画界でのはったりに利用し、貴族を示す「フォン」を自称した。自称の経歴では、父はフリードリヒ・フォン・ノルトヴァルト公で、士官学校在学中に貴族と決闘沙汰を起こし、皇帝フランツ・ヨーゼフから直々にアメリカ行きを勧められたという。

1914年に軍服のアドバイザーとして映画界に入り、D・W・グリフィスの『國民の創生』で監督助手を務め、屋根から落ちる役でエキストラ出演もした。続く『イントレランス』ではアシスタントディレクターを務め、パリサイ人の役で出演した。1918年には、第一次世界大戦でのドイツ軍の残虐を描いた作品でドイツ人将校を演じ、知名度を上げた。1919年には、アルプスの高地を舞台に、アメリカ人夫婦と悪徳好色漢(自らが演じた)との三角関係を綿密なリアリズムで描いた『アルプス颪』の脚本をユニヴァーサルに売り込み、自ら監督・主演して成功を収めた。続けて『悪魔の合鍵』と、空前の巨費を投じた『愚なる妻』を製作した。『愚なる妻』では、モンテカルロのカジノをハリウッドに実物そっくりに再現させ、製作期間は13ヶ月、製作費は最終的に110万ドルに達した。

メトロ・ゴールドウィン・メイヤーに移ると、フランク・ノリスの小説『死の谷』を映画化した『グリード』に取り組んだ。舞台を現代に移し、サンフランシスコの無免許歯科医とその妻の生活を凄まじいリアリズムで描いた。全編をロケーション撮影し、ラストシーンは酷暑のデスヴァレーで強行した結果、病人が続出し、死者まで出たという。最初の完成版は42巻で上映時間が9時間を超え、会社と揉めた末に2時間余りにまで切り刻まれた。続く『メリー・ウィドー』ではウィーンの帝政末期を甘く描き、『結婚行進曲』では豪華な衣装を仕立て、料理まで実際に作らせて撮影中にキャストが口にした。しかし、予算超過と長尺のために会社やスタッフ、俳優と何度も衝突し、作品は勝手に編集されることが多かった。『結婚行進曲』ではスタジオに編集権を奪われ、第2部は未公開に終わった。1929年にはグロリア・スワンソン製作・主演の作品に取りかかったが、撮影中にスワンソンと衝突して中止となった。初のトーキー作品も未公開に終わり、これが監督として最後の作品となった。こうして43歳で映画づくりの道を断たれ、「呪われた監督」と呼ばれた。

その後は主にハリウッドで、脇役専業の性格俳優として異彩を放った。ジャン・ルノワールの『大いなる幻影』ではドイツ軍の貴族出身の将校を重厚に演じ、ビリー・ワイルダーの『サンセット大通り』では引退女優の執事を演じてアカデミー賞助演男優賞にノミネートされた。ワイルダーは1943年の『熱砂の秘密』でロンメル将軍役に彼を選んだが、シュトロハイムのリアリズムへのこだわりに感銘を受けつつ、危うく演出まで乗っ取られかけたと、のちに語っている。晩年はヨーロッパに渡り、1955年に3本の映画に出たのを最後に現場から遠ざかった。亡くなる2か月前にレジオンドヌール勲章を受け、1957年5月12日、パリ郊外で72年の生涯を閉じた。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物