伝記
船越義珍は、明治元年(1868年)に首里山川村(現在の那覇市首里山川町)で、冨名腰義枢の長男として生まれた空手家である。戸籍上は明治3年生まれとされる。冨名腰家は代々首里王府に仕えた下級士族の家で、祖父は聞得大君御殿の台所方筆者を務めたが、父が大酒飲みだったため一家は没落し、義珍が生まれたときは借家住まいの困窮した暮らしだったという。早産だったためか幼少期は病弱で、母の実家で育てられた。当初は医学校への進学を望んだが、士族の象徴である髷を切ることが条件だったため断念し、教員の道を選んだ。沖縄県尋常師範学校の速成科を出て、数え年21歳のとき代用教員となり、のち正教員に昇格した。
唐手を学び始めたのは、湖城家の証言によれば明治18年(1885年)春、16歳のときに那覇手の大家・湖城大禎に師事したのが最初とされる。しかし5尺に満たない体格に那覇手が合わなかったのか、期間はわずか3か月だった。その後、首里手の大家・安里安恒に本格的に師事し、特に公相君の型を学んで得意とした。糸洲安恒にも学んだとされるが、摩文仁賢和の長男はこれを否定している。小学校で教えるかたわら児童にも唐手を指導し、のちに「ピンアン先生」とあだ名されるほど平安の型を得意とした。30年を超える教員生活を終えると、沖縄尚武会などを設立して、学生の支援や唐手の普及と統一の活動を始めた。大正10年(1921年)3月には、欧州外遊の途中で沖縄に立ち寄った皇太子(のちの昭和天皇)の前で、首里城での奉迎演武を指揮した。
大正11年(1922年)5月、文部省主催の第一回運動体育展覧会に出品するため上京し、唐手の型や組手の沿革を掛け軸にまとめて自ら説明した。閉会後も講道館などから求められて講演と実演を重ね、翌6月には講道館で嘉納治五郎や柔道有段者を前に、公相君を演武した。そのまま東京にとどまり、同年11月に空手史上初となる『琉球拳法 唐手術』を出版した。大正13年(1924年)には初めて段位を発行し、慶應義塾大学に唐手研究会が発足して、初代師範に就任した。乱取りに相当する稽古がなく型だけだという批判は柔道家から繰り返し出され、船越は当初15の型を持って上京したが組手はあまり知らなかったと、初期の弟子の大塚博紀や小西康裕は語っており、大塚らが神道揚心流などの柔術を参考に約束組手を作り上げたという。自由組手の導入には船越が強く反対し、東大の唐手研究会が防具を使う試合化を試みると、抗議して昭和4年(1929年)に師範を辞任している。同年、慶應の研究会が般若心経の「空」の概念から唐手術を空手道と改称し、以後、空手の表記が広まった。
昭和3年(1928年)3月には宮内省に召され、門下15名を率いて宮中済寧館で御前演武を行った。昭和10年に三冊目の著書『空手道教範』を出し、唐手術は空手道という呼称に改められた。昭和14年(1939年)には、豊島区雑司ヶ谷に念願の「松濤館」道場を建設した。同年7月には大日本武徳会から、三男の義豪とともに空手術錬士の称号を受けた。松濤館流の事実上の開祖とされる。妻ゴゼイとの間に3男2女がいた。晩年まで公に空手の試合を認めることはなく、昭和32年(1957年)4月26日に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ドロシー・L・セイヤーズ (1957年没)
- モーリス・オーダン (1957年没)
- ルイス・B・メイヤー (1957年没)
- ヴァレリー・ラルボー (1957年没)
- ジョゼフ・カントルーブ (1957年没)