伝記
ホーコン7世は、1872年8月3日にデンマークのコペンハーゲン近郊シャロッテンルンで生まれ、1905年から1957年までノルウェー国王を務めた人物である。生まれたときの名はクリスチャン・フレゼリク・カール・ゲオルク・ヴァルデマー・アクセルといい、カール王子と呼ばれた。父はのちのデンマーク国王フレデリク8世、母はスウェーデン=ノルウェー国王カール15世の娘ロヴィーサで、次男にあたる。兄はのちのデンマーク国王クリスチャン10世である。兄弟とともに、倹約と勤勉、規則正しさと義務と秩序を重んじる厳格なキリスト教教育を受けた。次男だったため王冠を継ぐ重圧は直接には受けず、兄より少し柔軟な環境で育った。幼いうちから海軍士官を志し、17歳で海軍士官学校の入学試験に合格した。成績はかなり悪かったが、船乗りの生活にはよくなじんだという。1893年に王立海軍士官学校を卒業して少尉に任官し、翌年には中尉となって、ヨーロッパの内外への航海に何度も参加した。
1896年7月22日、いとこにあたるイギリスの王女モードと結婚した。モードはエドワード7世の三女で、母はカールの父方の叔母アレクサンドラ王妃である。二人のあいだの唯一の子は1903年7月2日に生まれ、のちにオーラヴ5世となった。1905年にノルウェーがスウェーデンとの同君連合を解消して独立すると、ノルウェー政府の委員会はヨーロッパ各国の王族を候補に挙げ、しだいにカール王子が有力となった。11月18日、オスカル2世に代わるノルウェー国王に選ばれ、ノルウェーゆかりのホーコンの名に改めて、首都クリスチャニア(現在のオスロ)で即位した。カールは、父や兄よりも先に王冠を戴くことになった。ノルウェーでは選ばれた数少ない君主の一人として、国民から次第に敬愛を集めたとされる。
1940年4月9日、ドイツ国防軍がデンマークとノルウェーに侵攻した。ホーコン7世とニューゴースヴォル内閣は、侵攻の初日にオスロを放棄し、仮首都としたハーマルへ向けて脱出して、以後は国内の諸都市を転々とした。その間にオスロでは、国民連合の党首ヴィドクン・クヴィスリングが、内閣の無効と自らの政権の樹立を宣言した。ドイツは国王にオスロへ戻ってクヴィスリング政権を承認するよう強く求めたが、ホーコン7世はこれを拒否した。6月には、王太子オーラヴや政府とともにイギリス軍の軍艦でノルウェーを離れ、ロンドンに亡命政権を樹立した。占領下のノルウェーが国家弁務官テアボーフェンの圧政に苦しむなか、ロンドンからラジオ放送や新聞を通じて国民を励まし続け、大きな尊敬を集めた。1945年5月8日のドイツの降伏を受けて、5月13日にまずオーラヴ王太子がオスロに入り、亡命からちょうど5周年の6月7日に国王が帰還して、熱狂的な歓迎を受けた。
1955年には、ノルディックスキーに大きな影響を与えた人物として「ホルメンコーレン・メダル」を受けた。日本とのつながりもあり、日本陸軍の冬季訓練での遭難事故(八甲田雪中行軍遭難事件)を聞いて、見舞いを兼ねて明治天皇にスキー板2台を贈った。これが日本とノルウェーのスキー交流の始まりとされる。1957年9月21日に亡くなった。在位は50年以上に及んだ。
同じ年に亡くなった人物
- 重光葵 (1957年没)
- ラモン・マグサイサイ (1957年没)
- アントニーン・ザーポトツキー (1957年没)
- ジョン・タウンゼント (物理学者) (1957年没)
- ロナルド・ノックス (1957年没)
同じ地域に関係する人物
- Henrik Lindstrom (1939年没)
- ロアルト・オース (2012年没)
- オッド・ハッセル (1981年没)
- Gunnar Heiberg (1929年没)
- John Lyng (1978年没)